自民党改憲案について

自民党の改憲案については、もちろん色々と思うところはあるけど、
それよりも改憲案について法律家がツイッター上で繰り広げるコメントに違和感を抱く。
草案内容や起草担当議員を嘲笑する議論は意味がない。

立憲主義とか自然権とか消極的自由とかは多くの人の肌感覚からずれつつある。
関心を抱かれていない。明らかに揺らいでいる。
自分の人生を顧みても、
人格的自律に係わる「自由」の危機を肌感覚で味わった経験がどれほどあるか。


電車の中でマナーの悪い人間がいたり、
攻撃的な態度を取る上司がいたり、
読めない名前を付ける親がいたり、野山が少なくなったり、
隣近所と挨拶をしなくなったり、父親の威厳がなくなったり、
隣国から領土問題で挑発されたり、ロケットを飛ばされたり、
具体的にイメージしやすくて、いやだなと感じると思われやすい問題はたくさんある。
これらの問題を個々人が自力で解決することは不可能に近いから、
誰かが上から押し付けて力づくで解決するしかないという気持ちになる。
「誰か」。つまり国だ。


憲法が自由を至高の概念として持ち上げて、
そのせいで、自由の延長として「わがまま」を言う人が増えてきていると考える人がいる。
自分自身は「わがまま」を言えないから、言いたくないから、言うべきじゃないと思うから、
自分以外の人たちも、「わがまま」を言うべきじゃないと感じる。
そのためには「自由」に歯止めをかけるべきだ、
人の迷惑も顧みさせるべきだ、
社会の一員としての責任を感じさせるべきだ、
我慢をしている自分と同じように。
そのためには自由を至高の概念とする憲法は見直す必要がある。
こうして憲法を改正するべきだという声が高まる。


表現の自由が侵害されて言いたいことが言えなくなったり、
監視社会が実現されてしたいことができなくなったり、
そんなことはイメージしづらい。
絵空事だと思うし、SF小説だと思う。
そのために社会が活力を失って、
だんだんと生活が窮屈になって、、、なんてことは現実に生じてから考えればいいやと思う。


生活にじんわりとした焦燥感が高まれば、
打開するためにわかりやすい目標が欲しくなる。
我慢して頑張っていてまじめに生活している人ほど、
「悪者」を「正して」一気に解決を図りたくなる。
かつてはうまくいっていた今までのやり方を貫いているのにうまくいかないときとか、
将来をぼんやり思い浮かべたときによりよくなっている姿が想像できないときとか、
自分は悪いことをしていないのに挑発されたり傷つけられたりしたときには、
どうしてもそういう気持ちになる。


この気持ちを無視して自民党改憲案を嘲笑しててもはじまらない。
起草担当者が立憲主義という言葉を知らなかったとしても、
片山さつき芦部信喜先生の直弟子と言ったとしても、
改憲の動きは止まらない。
啓蒙思想の否定となることや、
近代法治国家の理念と食い違っていることを指摘しても、
彼らが歩みを止めることはないだろう。
彼らは政治家だから、社会のバックボーンがないならば、あれほどの改憲案を正面から提示はしない。
あの改憲案には少なくない支持者がいる。


仙石由人は「自衛隊暴力装置」と言ってマスコミからたたかれた。
他方で自民党は正面から「国防軍」と言う。

97条の憲法最高法規性条項を削除し、
18条の奴隷的拘束禁止条項を社会的・経済的な身体拘束禁止条項に書き換え、
36条の拷問・残虐な刑罰の絶対禁止条項を相対禁止条項に変える。
国民に、憲法擁護義務を課す。


正面から堂々と、自信を持って、目に見えて声が聞こえる支援者とともに、
彼らの世界観を打ち出してきている。
反対するならば、正面から自分の世界観を打ち出す必要がある。
相手の世界観をバカにするだけでは太刀打ちできない。
覚悟が必要だ。


はっきり言ってとてもしんどい。
自分の仕事で日常は手一杯だ。
それに、世界観を正面から出すことは少し恥ずかしい。
それが理想主義的であればなおさらだ。
自分の世界観を友人に酷評されることもある。
とても傷つくかもしれない。


でも、気合いを入れなければまずい。
自分の生活とか人生に、少なからず関係してくることだから、
自分の生活とか人生を、少しだけ割いて、
自分の世界観を打ち出していく必要があるのだと思う。


私は自民党改憲案に反対です。


ではまた。