夫婦別姓反対論の検討その3

あいだに全然関係ない日記を挟んでしまいましたが、
つづきものの最後に「ジェンダー素描 やっぱり反対、夫婦別姓」について検討したいと思います。
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/sign/sign69.html
作者の神名龍子って、変な名前って思ってたら、ペンネームだった、
っていうか、ジェンダー論者じゃん。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%90%8D%E9%BE%8D%E5%AD%90
こりゃ、勉強になると思ったよ。




さて、検討です。



<前略>
推進派の主張するメリットも、反対派が主張するデメリットも、私には共によく理解できない。

<中略>
家族が同じ姓を名乗ることによって「家族の一体感」を感じるのも、それを「伝統」だというのも、少なくとも明治以降の話であろう。
<中略>
そもそも「姓が異なるから一体感が持てない」というような家族なら、同じ姓を名乗ってもやはり崩壊するのではないか。
<中略>
婚姻時に多くの夫婦が男性側の姓を名乗るのは法律の問題ではなくて、あくまでも慣習によるものだ。つまりこれは人々の意識の問題であって、法制度の問題ではない。
<中略>
「家」制度と夫婦同姓とは、何の関係もないのである。
<中略>
姓が変わるとそれ以前の職業上の実績が無視されるというのがある。昔の実績を別人のものだと勘違いされるというのだ。これについては私は、何年か前に初めてこの話を聞いたとき、それなら作家のペンネームのように、戸籍名とは別にワーキングネームでも使うという事も可能ではないかと考えたことがある。現在では実際にそのような案も出されているらしい。

 そもそも、姓が変わったくらいで支障が出るというなら、それはその人が「忘れられるような仕事しかしていない」ということを示してはいないだろうか。「荒井由美」が「松任谷由美」になったからといって、「荒井」姓時代の実績を忘れられたりはしないのである。

選択性の別姓案くらいが妥当な線ではないかと思えてくるのである。

<後略>

少し長めに引用してしまいました。


あれ・・?
と思いますね。



いや、実はこの人は制度としては別姓賛成派なんです。


この後に、

以上は推進派や反対派の意見に対する私の見解である。

という文章をつなげて、
自分自身がどう考えるかをのべていくのです。



そういう意味では、ちゃんと推進派や反対派を検討して、
ある程度の落としどころを先に提示しておいて、
それから自分の意見を述べようってんだから、
バランスが取れていると思うし、何より、かなり期待できます。



さて、では、反対の理由はどこにあるでしょうか。



そもそも「夫婦」とか「結婚」とは何であるのか。それは上に述べたように、さしあたり「双方の親から独立した個人(男女)の結合」と考えることが出来る。

<中略>

 では、夫婦とはいかなる性質を持つ共同体なのか。まず上げることが出来るのは、それがエロス的な関係であって、ヘーゲルのいう市民社会」(経済活動の領域)のような契約を媒介とする関係ではないということである。・・・・・これだけなら「同棲」と同じ事だが、そういう関係になったということを対社会的に宣言し、社会から承認されるという点で異なっている。

<中略>
ところで、結婚という制度に縛られることを嫌って、同棲関係にも法的に結婚した夫婦と同等の権利や処遇を求める声がある。しかしこの主張は、明らかに結婚(婚姻)と同棲との違いを見誤っている。・・・・しかし、そもそもそういう関係を社会的に認めるのが「婚姻」なのであり、社会的承認を求めないのが同棲なのである。このような要求は、例えば転居先の区役所に対して「転入届は出さないけど区民として認めろ」というのと同じだ。

<中略>

さて、結婚する二人が、自分たちを法的に婚姻関係に置くということは、一種の選択である。選択である以上、そこにはある種の決意がある。それは、互いを排他的に独占し合うような関係を持つ決意であり、その関係を維持するという決意である。・・相手にエロスを感じるかどうか、また相手にエロスを与えることが出来るかどうかということは、法や制度によって保障する事はできないからだ。だからこそ、その維持のためには当人たちの決意を必要とするのである。

<中略>

ここまで考えて気付くことがある。夫婦が同じ姓を名乗るということは、その姓は単に「夫の姓であると同時に妻の姓でもある」ということではない。つまり姓とは、夫や妻という「個人」の名称なのではない。それはいわば「夫婦」という、社会の中の最小の「共同体」の名前なのである。つまり、企業や国家に名前があるように、夫婦にも名前がある。それが明治以降、近代日本における「姓」なのだ(法律上の用語では「氏」という)。ならば、夫婦は同姓であるべきである。企業において「社員別社名」は成立しないし、国家において「国民別国名」もあり得ない。それと同様に「夫婦別姓」もまたあり得ようはずがないのだ。

<中略>

別姓推進派の主張にはもう一つ、「永年使っていた旧姓がその個人のアイデンティティにとって重要な意味をもつ」というのがある。しかし、それはあくまでも結婚前のアイデンティティの話であり、正確にいうならば結婚を決意する以前の話である。結婚し、結婚生活を維持することの決意が自らのアイデンティティに組み込まれないのであれば、その結婚の決意は何であるのかと問われても仕方がないのではないか。

<後略>

ずいぶんと引用が長くなりました。
実際、これまでの別姓反対論の文章と異なり、
ある程度説得的ですし、最後の、「社員別社名は成立しない」云々のくだりは、
初見ではなるほどなぁと思わされたのでした。



では、検討します。



1.結婚とは「双方の親から独立した個人(男女)の結合」である。
2.結婚とはそういう関係になったということを対社会的に宣言し、社会から承認されるものである。
3.姓とは、いわば「夫婦」という、社会の中の最小の「共同体」の名前である。
4.だから、同姓であるべきだ。


というものですね。


私は、1については、さして反対しません。
別にそういう考えをする人がいてもいかなと。
ただ、これだと、結婚するまでは双方の親から独立していないことが前提になっている気がしますね。
私は結婚していないので、
「結婚して初めて親から独立した気持ちになったんだ、結婚までは独立じゃなかったんだっ。」
とか言われたら、はぁ。そうですか。と言うしかない。
なので、究極反論できないけども(本当は反論不可って非科学的なのであまり好きではありません)、
経済的にも、生活実態としても、精神的にも独立してたら、私はもう独立だと思います。
親が早くに亡くなっていたりしても、結婚するまでは独立していないのかなぁ。
そんなことない気がするんだけどな。



なお、この文章を、「独立した」というところに重きを置かなければ、
単に「個人(男女)の結合」となりますが、これはシンプルで、異論はありません。



さて、
2です。
「結婚とはそういう関係になったということを対社会的に宣言し、社会から承認されるものである。」
って言うんだけど、これは明確に異論がある。


イメージが限定されすぎている。


いや、この人が法律的な結婚だけを考えているなら、このくらい限定されていてもいい。


けどもこの人は、多分、社会学的に、又は哲学的に(ヘーゲルとか出しているしね)
結婚を検討しているんだと思う。
だったら、やはり「事実婚」というものが社会に厳然としてあることを否定してはいけない。
筆者の言うとおり、
決意をして、
二人だけで精神の結合を約束し、
エロス的な関係を築き、
共同体を結成はするけれども、
社会に対してはひっそりと暮らす夫婦がいてもいいじゃないか。


なぜ筆者の言うとおりの存在であっても、社会的に宣言し承認されていないと夫婦と認めないのか。
この点の理由付けが決定的に欠けていると思う。





エロス的な関係を維持するためには、当人たちの決意を必要とするのであると筆者は言う。

結婚する二人が、自分たちを法的に婚姻関係に置くということは、一種の選択である。選択である以上、そこにはある種の決意がある。それは、互いを排他的に独占し合うような関係を持つ決意であり、その関係を維持するという決意である。

それなら、当人たちの決意さえあればいいのではないか。


その直前には、「婚姻を届け出るということが、関係の維持を保証するわけではない」とも述べていて、社会への宣言によって、自分たちを縛り、それによりエロス的関係を維持する効果を狙っているのでもないのだと思う。


なぜひっそりとエロス的関係を維持することを決意した彼らのことを結婚していると認めないのだろう。



結局、彼は、


「結婚」=社会的宣言+承認
社会的宣言+承認=共同体の宣言
共同体の宣言=同姓が不可欠


という論理の流れをたどっているのだ。



そのことは、「そもそもそういう関係を社会的に認めるのが「婚姻」なのであり、社会的承認を求めないのが同棲なのである」という文章からも明らかである。


文章の中では、「結婚」=エロス的関係の維持とか、法的制度は不要であるとか、そのようなことをいっているけれども、結局は、「結婚」=社会的宣言+承認といっているのだ。


彼は、論理が混乱しているのだ。
「社会的に認める」というものを、「社会」ではなくて、「法律」と誤解しているのだ。
彼は、エロスを法によって縛ることはできないといいながら、実は「法律」によって認められた関係だけを結婚と呼んでいるのだ。
これはつまり、純然たる法律婚主義である。法律上の届出をした人だけが結婚、していない人は同棲、事実婚は認めない、ということである。
この考えは、下記からも明らかだと思う。
同棲にも法律と同じ権利を認めろという主張に対する反論として彼はこういう。

このような要求は、例えば転居先の区役所に対して「転入届は出さないけど区民として認めろ」というのと同じだ。ただし、転居ならば転出・転入届の提出は義務だが、異性と生活を共にするにあたって婚姻届を出すか出さないかは、当人たちの意志によって決める問題である。

彼からすれば婚姻届を出さない人たちは、転入届を出さない人たちと同じなのである。
届けを出さないのだから、結婚の効力を認めなくてもいいだろうと。




しかし、この論理は、結婚をしているならば、同姓になれ、と法律が命じることを、一切正当化しない。



彼は、
ア 結婚とは何か、という問いから出発し、
イ 結婚とは法律婚であるという前提をたて、
ウ 結婚とは法律婚なんだから、結婚とは社会的な宣言・承認だ、という論理操作を行って、
エ 社会的な宣言・承認のためには、同姓である必要がある、という結論を出しているんだけど、これは、一種のトートロジーなんだよね。
つまり、ウって、イの理由でもあるんだよね。


結婚とは社会的な宣言・承認だ、
だから、結婚とは法律婚に限るべきだ、

っていう論理と、
結婚とは法律婚に限るべきだ、
つまり結婚とは社会的な宣言・承認だ、

っていう結論って、ずーっと堂々巡りなわけだ。



うーむ、伝わっているかな。もっとスパッと説明できるといいんだけど。


なかなか周到なトートロジーだし、
途中にエロス的とか、法律で人は縛れないとか、それっぽいこと書いてあるから、
一瞬だまされちゃうんだけど、
結局は結婚ってのは同姓を営む共同体のことを言うんだから、
結婚したら同姓になるのは当たり前でしょ、って言っているだけで、
全く論理がつながらんのですよ。




あと3に関連して、

私も初見でなるほどと思った会社と国の話だけど、
これはなんというか当たり前のことを用いてうまいこと説明しているってだけです。
というかこれもトートロジーで、
同じ国名で国民に対して統治権が及ぶ社会的存在を「国」と呼ぶわけだし、
同じ社名で社員が活動する団体を「会社」と呼ぶわけです。



だから、同一国別国名(同一社別社名)がないのは当たり前なわけ。
それがない制度を措定しているんだから。


そして、もっと大事なことは、国や会社は自分と別の主体だから、名前が統一されていても別にかまわないけど、自分は明らかに一つしかない主体だから、自分の名前を統一するほどの共同体の存在を認めるのは、むしろこの人が標榜する個人主義に反していると思う。
この人のたとえを使うなら、日本に住んでいる人は、全員苗字を鳩山にする法律とか、
トヨタに勤めている人は全員苗字をトヨタにする法律とかと比べないとアンフェアでしょ。
そして、それを想像してくれれば、この人が、同じ共同体なんだから、同じ苗字にするべきだ、っていっている論理の異常さというか、ずるさがわかると思う。
どんなに強固な共同体を構築するからといって、あくまで共同体であって自分ではないんだから、
法律が共同体にあわせて苗字を強制的に変えさせるというのは、やはり個人主義に反しているんだと思うよ。




隠された前提を理由にもっていくと一見理屈っぽく見えるというのは、
大変勉強になりました。


 
今日は結構論理的に詰めるのが大変でした。なかなか手ごわい相手だった・・。


ちょっとわかりづらい気がします。多分、しっかりと相手を分析するところつめないと、反論がばらばらになっちゃうんだと思う。今回の相手は、論理が一見明快で、つながっているように見えて、実はあっちに行ったりこっちに行ったりしながら、さらに論理の流れからするとそぐわないたとえ話を出してくるから、分析も難しかったし、紹介も難しかったです。
特に紹介するときに出来るだけ相手の文章をそのままの順番で引用したいので、なお難しかったです。
こういった経験を踏んで、もう少しうまいこと分析できるようにがんばります。



では、また。