夫婦別姓 まとめ

以上、3つのブログを引用しながら、別姓反対論を批判してきました。


3つに共通するのは、


「結婚とは〜〜である。したがって、同姓でなければならない」


という論理です(正直、産経はそういった論理すらなかったですが・・。)。



小浜氏(http://www.ittsy.net/academy/library/200207xx-Voice.htm)は、

結婚とは、「家族」という共同的なまとまりを作ることを決断した者たちが、その意志を周囲の社会から承認してもらう制度的な手続きのことを意味する。

と書き、


神名氏(http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/sign/sign69.html)は、

さしあたり「双方の親から独立した個人(男女)の結合」と考えることが出来る。<中略>それがエロス的な関係であって、ヘーゲルのいう「市民社会」(経済活動の領域)のような契約を媒介とする関係ではないということである。この「エロス的な関係」とは、お互いが夫婦という関係の中から「エロス」(=よい感じ)を汲み上げるということであり、あるいは「エロス」を与え合う関係といってもよい。だから、お互いに「エロス」を感じなくなったら、一緒にいるのが面倒になる。これだけなら「同棲」と同じ事だが、そういう関係になったということを対社会的に宣言し、社会から承認されるという点で異なっている。

と書いているわけです。


彼らは、この論理に、「姓とは〜〜である。したがって、同姓であるべきだ。」
という論理を組み合わせて、だから、同姓であるべきだ、という結論を、
論理的に導き出しています。



彼らの共通点はもう一つあり、両氏とも、自らを近代個人主義であると主張することです。
これは、なかなか興味深い。
つまり、二人ともイエ制度の維持を求めて同姓を求めているのではなくて、
個人主義の帰結として同姓を求めざるを得ない、というスタンスに立つわけですね。



私は、彼らは二つの点で間違っていると思います。


一つは、根拠のない定義を前提に論理を進めている点です。
つまり、『結婚とは〜〜である』の『〜〜』がどうなるかによって、
どうとでも結論は変わりうるのです。


大げさに言えば、「結婚とは、2人の個人が同姓となることである」と定義付けてしまえば、
別姓論など出る幕はないわけです。



そして彼らの論理は、これと大差がないのです。


結婚とは共同体を営むものである、
共同体とは同一の名称を掲げるものである、
よって、結婚した夫婦は同姓であるべきである・・・。


結婚とは同棲とは違う。
社会的な宣言が必要である。
だから、同棲であるべきである・・・。


私は、彼らの社会学的な主張や、結婚観、性別観などは面白いと思いますし、
フェミニズム批判や、家族観、歴史に対する造詣の深さなどは敬意を表します。
なんとなく、改めて二人の論理を見ると、とても似ていて面白いですね。



問題は、結婚制度において同姓にするべきか、別姓にするべきか、
という社会的法的制度に対する提言をするにあたり、
各自の結婚観から提言していることにあります。


私は、この人たちの同性愛結婚への見解こそ読んでみたいと思います。
同性愛結婚の是非は、世界的・歴史的な問題ですから、
各自の結婚観や哲学を提言の基礎においてもかまいません。


しかし、同姓にするかどうか、という議論において各自の結婚観は、要らないと思うのです。
なぜか。


私は、人の姓は、誰かの結婚観に影響されるものではないと考えるからです。
このように書くと、


「お前も、人の姓とは〜〜である、だから夫婦は別姓であってよいという論理を使ってるじゃないか」と言われそうなので、反論します。


私の考えのポイントは、


国が、個人に、何かを強制するには理由が必要だ、ということにあります。


結婚する際に夫婦は別姓であってもよい、同姓であっても良い、というのは国による強制が一切ないですから、私にとっては特段理由が必要ないんですよね〜。
ですから、これまで延々別姓反対論を批判する、という作業に労力を費やしてきたわけです。




結婚をするなら、姓を変えろというのは、一つの命令です。
ただ、法律上の結婚制度を構築しているのも国家なので、
そこは実はいわゆる強制ではありません。
結婚するもしないも自由ですから。


ここから、少しハイスピードで議論を進めます。


夫婦別姓論を議論するときには、ここが重要になるのです。
一般的に私が述べる、国が個人に強制するには理由が必要だというのは、
国とは無関係の社会的生活を送っているときに、
国により何かを強制される際に通用する議論です。



ただ、法律上の結婚は国が構築した制度です。
ですから、国は法律上の結婚をする人には、同姓という命令を下せるわけです。


法律上の結婚をするなら、同姓ね、
法律上の結婚をしないなら、別姓でもいいよ。

というわけです。


では、法律上の結婚を利用すると何のメリットがあるか。
相続や、年金や、子供の扱いや、税金なんかで、
法律上の結婚をしていたほうがメリットが大きいのです。
また、社会的にも法律婚のメリットは大きいですね。
法律上の結婚をしたカップルとなれば、やっぱり周りの見る目も違うわけです。
なお、周りの目は、同姓になったから変わるんじゃありません。
あくまで結婚したらです。


逆に言えばこれらのメリットを享受しなくてもいいや、と思ったら、
法律上の結婚なんてする必要は一切ないのです。


別姓批判論者が主張する、結婚とは〜〜、なんていうのは姓とは全く以って無関係です。


彼らは、本当に無意味な論理を駆使して、自分が望む、同姓論、に持っていきたいだけです。
結婚とは同姓でなければならない、なぜならば結婚とは同姓のことを言うからだ、
もっといえば、私は同姓の結婚が好きだからだ、
といえばいいのに、そんなことを言うと頭悪そうでかっこ悪いから、
長々と無意味な論理を駆使しただけなのです。


だってさ、おかしくない?
彼らって高市早苗的なやり方でもいいって言うんだよ?


ある長年付き合ってた二人が、
ある日プロポーズして、婚約指輪あげて、
両方の親に挨拶に行って、
結納して、
結婚指輪を交換して、
親戚・友達呼んで結婚式をあげて、マンション買って、
奥さんが子供2人生んで、
奥さんが仕事があるから旧姓使ってます、おほほ、なんて言いながら、
実は婚姻届を出していなかったら、どうするの?彼ら。

つまり、一切同姓になってないわけよ、法律的にも。


彼らは、それは結婚ではないって言うの?わけわからん。
理由は?
同姓ではないから以外にあるの?
ってことは、彼らにとって、結婚とは同姓のことである、ってならない?


実は、ちがうのです。
彼らにとって、姓ってのは実は結婚にとってどうでもいいのです。
かれらは、実は法律婚至上主義なんだよね。


つまり、法律に結婚とは同姓であると書いてあるから、それに従っているだけなのよ。
じゃなきゃ、結婚したら姓を一緒にしなきゃ、なんて思いもよらないと思うよ
で、姓を一緒にしなさいって法律に書いてあるのは、単に当時の慣習に従ったわけで、当時の慣習ってのは明治以来の家制度の慣習の引継ぎでしょ。それと近代憲法を何とか結合させただけだって。
とりあえず妻の姓でもいいことを理由に両性の平等なんて言っているひとがいるけど、
昔から妻の家を残すために養子なんてのはいくらでもあったわけです。


いや、もちろん家制度は、法律上はなくなったけど、現行法制定当時には、
まだまだがっつりと家制度は慣習として残っていたわけで、一気に別姓なんて、そこまでラディカルに変えることができなかっただけだと思う。



現行法制定から50年経ったら、それが変容して、
わけのわからん理屈を以って、同姓以外は結婚にあらず、しかもそれは家制度とは関係ないのだ、
近代個人主義に立脚するのだ、なんて人々が出てくる始末で、
こんなん単なる慣習だって。



もういちど、言います。
結婚=同姓、というのは、単なる日本の法律婚におけるルールです。


ルールですから、今は全員従っていて、
メリットを享受したければ、又は特段こだわりがなければ結婚して、
こだわりがある人は、事実婚にしたり、結婚してすぐに離婚したりします(子供のためです)。
変えなければならないし、変えても全く問題がないルールです。


変えなければならないのは
姓を変えずに結婚をしたい人がいるからです。


ここで、このような主張をする人をわがままと切り捨てる人がいますが、
感情の問題ではありません。


もう一度言いますが、この人たちが求めているのは、
法律婚のメリットです。
法律的なメリット、社会的なメリット。


いまは、これらのメリットを、結婚したら同姓にしなければならない、と思っている人たちに独占されています。
うまいこと自分たちの考える、こうあるべき、という社会にするべく、制度を作っているわけですね。


「結婚したら夫婦が同姓っ、それこそいい社会、同姓さいこー」、と
何の根拠もなく、単なる感情で言っている人たちが、メリットをむさぼっているわけですね。


その反面、同じく感情で、
「うーむ、この人と結婚はしたいけれど自分の姓が変わるのはいやだな・・。」


という人はわがままだっ、結婚の覚悟が足りないっ、こんなやつは家制度の残党だ(?)、
こういうやつが家庭を崩壊させるんだっみたいなバリゾウゴンを浴びせられるわけです。


いやいや・・・。なぜに、我慢せにゃならんのさ。
メリット頂戴よ。




で、現状にとてもメリットを感じている人、自分の思い通りの家族観が社会に実現されている人は、あんまり感情で言うと格好が悪いから、というかじわりじわりと負けてしまうから、色々な論理を駆使するわけです。
つまり、どの論理も、実は産経新聞の論理と変わらないわけですね。
別姓はイカン、共同体原理に反する、人間原理に反する、歴史の教訓に学んでない、家庭が崩壊する、子供が泣く、教育に良くない、社会に良くない・・・。


もっとさ、制度構築の議論はさ、科学的にやろうよ・・。
データとかさ、論理とかさ、もう少しつめようよ・・。
偶然大きめのメディアにいるからってこんな人が自分の主張を垂れ流すシステムはやめようよ・・。
他の制度もあるけどさ。
慣習が支配している制度を、感情に置き換えて、そこから非科学的な論理に持っていくという黄金パターンから日本が解き放たれますように・・。
ブログには解き放つ力があるので期待してしまいます。



で、んじゃデメリットがあるかというと、ちょっと上にも書いたけど、
あるわけない。家制度からきた慣習だったんだから。


社会的混乱もなければ、特段のコストもかからなければ、
家族の崩壊なんてありえない。


あるなら、あると主張するやつらが、データを出せ。


彼らに出せるデータは世論調査だけです。
世論調査は関係ないんだってば。
8割が反対していても、関係ないんだってば。
なぜ2割の人は、姓を変えるという我慢をしないとメリットを享受できんのよ。なぜ、選択せにゃならんのよ。そりゃ8割の人は全く気にならんのだから、どうでもいいわさ。
この人たちにとっては我慢もないし、選択もないからね。
そういう人たちを何人連れてきても全く意味がないんだわさ。



夫婦別姓選択性にしたらいいじゃんか。
なんでそんなにがむしゃらに反対する?
自分の結婚観を人に押し付けたい気持ちはわかるけどさ、まじで勘弁してよ・・。


私の知り合いで旧姓でお付き合いをしていて、
もう何年も経つけど、その方の法律上の姓を私が知らない人は何人もいるよ。
困るの、それで?
反対派の人たちって、ほんと、わけわからん。
私の姓ってあなたたちのものじゃないんですけど・・。
姓は社会的だとか、またわけわからん論理に持ってかれるから、やめとくけど。



例えば私の結婚相手が(出来たらですが)、私の苗字になりたい、って言ってきたら、
それは喜んで受け入れるし、
相手がすごい金持ちで、相手の親御さんが自分の苗字になってくれたら10億やろう、
なんて言ってきたら、ハイよろこんで〜。
だけど、とりあえずそこには自分の選択がある。
選ばせようよ。なんで法律上の結婚をあきらめさせるかな。
それでいて非嫡出子問題もあるしね。
いや、人に価値観を押し付けて、その価値観以外ではメリットを享受できないどころか、
デメリットまで与えるなんて、まじでどうかしていると思う。
意味がわからん。









さて、彼らの二つ目の問題点です。


ここまで長々とだらだらと書き連ねてきましたから、わかりましたよね。
はい。


「近代的個人主義」だと思い込んでいるところです。



色々な点でそのぼろは出ていますが、さらに一声、倍率ドン。はい、以下の通り。



彼らは、実は国家制度である法律婚至上主義です。

国家制度ありきです。
共同体ありきです。


近代個人主義とは、共同体との決別から始まります。



全く近代的個人主義ではありませんね。





では、また。