私のこと

私は凡庸な人生を送ってきた。
すなわち、極めて恵まれた人生を送ってきた。

家族で亡くなった人は、祖父母だけだ。二人とも死因は老衰。
市立の小学校を卒業し、都内の私立中学・高校を経て、
都内の私立大学へ。


身体的にも、精神的にも、健康に恵まれ、惜しみない教育費を含む大きな愛に恵まれてきた。


適当にスポーツをし、投げやりに恋愛をし、気まぐれに受験をして生きてきたというのが、私の半生を説明する手ごろな文章だと思う。

私は何かに熱中したこともなく、さりとて特段不感症というわけでもなく、適度に遊び適度に勉強をし、適度に嘆き、適度に悩んできた。

私の人生は極めて恵まれたものだった。
大きな事件、人生をかけた悩み、身を引き裂かれるような別れ、徹底した物的不足など、何一つ被害を蒙っていない。




そういう人生を送っていたら、何一つ特徴のない人間となってしまった。


現在の自分に、少しばかり戸惑っている。自分は、かくあるべしという「生」をイメージし、そこから外れる行動は謹んできた。自分に枠をはめ、方針を定め、着実に歩んでいるのだと思っていた。



しかし、自分が抱いてきた「大学時代までのかくあるべき生」とは、いま自分が考える「大学時代にかくあるべきであった生」ではない。なるほど。その両者が異なると、戸惑うわけだ。



私は、現在、困っている。
いま、私が抱いている「かくあるべき生」は、本当に意味があることなのだろうか。
でも、「かくあるべき生」を抱かずに、人生を送ることは出来るのだろうか。
どこに行動指針を見出せばいいのだろうか。
「かくあるべき生」など設定するべきではないという価値基準は、「かくあるべき生」の代わりの行動基準となるのだろうか。
私が抱いている枠は、単に安寧を求める心と、自らの枠を外れることへの恐怖という、「保守」の精神が作り上げたものに過ぎないのだろうか。


自分が「保守」だっただと?
今の自分が「保守」になりつつあることはなんとなくわかる。
でも、自分は、「保守」にあらざることを一つの行動指針にしていたのではなかったのか。
自分が抱いていた「かくあるべき生」が、いま自分が考える「かくあるべき生」ではないどころか、そもそも「かくあるべき生」を求めて定めた行動準則に従って行動していたら、全く別のところにきてしまった。
「かくあるべき生」から、行動基準を抽出する過程でも誤りが混じってやがった。



目的がずれ、目的から導いた手段すらずれていたら、そりゃ当初求めていたものと別のものが出来上がる。
別の人生が出来上がる。
でも、俺の人生だ。



人生とはこういうものなのだ、などという大人にだけはなりたくなかったのに。
人生とは、とても複雑で、わからないものなのだ、というありふれたフレーズを口にするような人生を歩むことは、なんとしても避けたかったのに。
ふむ。