マスメディアの問題

報道が危機に瀕している、というのはよく言われることですが、その理由は極めて簡単なことだと思います。ジェネラリストを採用しているからです。


報道の本質は批判です。
批判をするからには、事実について、批判的な視点が必要です。
批判をするためには、何かしらの分野において専門性がなければなりません。
専門性がない批判は、単なる悪口です。


それなのに、マスメディアは、大卒を一律で採ります。
社会人経験のあるマスコミ人って聞いたことがありません。
大卒の中にも専門性がある人はいるのですが、マスメディアに入る人は、メディア論とかを専門にしては入ります。メディア論というのは、あくまでメディアという存在についての専門性です。メディア論を学んだ人はメディアを報道するときには役立ちますが、それ以外では素人です。で、多くがメディア論しか学んでいません。もちろん学部においてある程度勉強している人はいるでしょうが、少なくとも私は、学年でトップレベルに勉強していてメディアに入った人を聞きません。




また、

批判をするためには、当然批判精神も必要です。
けれども、現代のマスメディアは既に権力側・既得権益側に位置づけられるので、現代のマスメディアに就職活動をして入ろうという人間は、基本的に批判精神がありません。むしろメディアに対する批判に憤っていたりします。




つまり、今のマスメディアは、専門性(批判能力)も、批判精神もない人たちが入社していると言うことになります。


それでは、入社後にどちらかを見につけることは出来るでしょうか。

まず、批判精神が身につけられるわけがありません。批判精神は、大学を卒業するや否や、ハイヤーを乗り回し、出張代が大盤振る舞いで、高給をもらう生活からは生まれません。むしろ現状を是とする風潮が広がります。


また、情報を取得するに当たり、常に記者クラブといった権力側からの提供に寄りかかっている以上、権力に対して批判的な精神を身につけることは困難です。取材も権力者に擦り寄りながら話を聞いて、抜いた抜かれたとやっているのですから、権力に対する批判意識を身につけられるわけがありません。
むしろ権力者に利用されるだけでしょう。


彼らが記者会見の開放にあれだけ反対・無視を決め込む姿は、権力側であることと、彼らに批判精神がないことをまざまざと見せ付けました。
また、彼らの多くは愚民思想をもち始めます。国民は本当にアホであるといいます。彼らはまさに「マス」を相手にしていますから、我々より多くの国民の実態を垣間見、そして絶望するのかもしれません。そして他方で、権力の中枢にいる人たちが、実際はとても努力家で有能であることを目の当たりにし、そのギャップに絶望するのかもしれません。


しかし、仮に本当にそうだとしても、国民をあざけり、権力者に擦り寄る精神をもつ人は、マスメディアにいることが許されないのだと思います。
彼らはマスメディアという特権を有しています。普通の人が入れない場所に行き、普通の人が見ることの出来ないものを見て、普通の人が会うことの出来ない人に会います。これらは全て、彼らに特権があることによります。特権とは何か。国民に真実を報道し、権力を批判することの対価です。


彼らは、自らの特権に酔いしれます。そして自分たちが選ばれた人間であると思い込みます。であるからこそ、国民をあざけるようになります。

しかし、彼らの特権の源泉は、国民の知る権利です。彼らは国民から信託された権利を、国民の代わりに行使しているに過ぎません。それにもかかわらず国民をあざけり、国民には真実を報道せず、権力にすりより、自らの特権を濫用することは、背信行為です。弁護士が刑事被告人をあざけり、法廷で裁判官や検察官という権力者に媚び、被告人に不利な訴訟行為をするようなものです。弁護士がそのようなことをすれば、懲戒請求です。


マスメディアは?




批判能力については、一つだけ望みがあります。新聞社です。

新聞社は、ある程度早くから記者の教育を考え、専門性を身につけさせます。地方の司法記者などは、毎日のように地方裁判所に赴き、継続的に裁判を傍聴します。裁判官や検察官、大手のメディアは2、3年で転勤しますので、地方の記者が一番その地域の司法に詳しいということは珍しくありません。
このようにして批判能力が入社後に植えつけられることはあるでしょう。


しかし、いみじくも地方新聞を例に出したように、余りに多様化した現代において、何かしらの専門性を身につけようとすれば、「マス」であることは出来ません。マスを目指す以上、どうしても広く浅くとなってしまいます。専門性とマスは、現代では二律背反とすらいえます。



では、マスメディアはどうすればよいのでしょうか。


応えは、実は簡単です。

記者には既に専門的な人間を集め、まさにメディア論を専門的に学んだ人間が、編集権を持てばいいのです。


つまり、大卒は、編集作業をOJTで学ぶ人間だけを採用し、記者は全て専門家とするわけです。

司法記者であれば弁護士、経済記者であれば商社マンや会計士、政治記者であれば政策秘書経験者や元政治家、社会部の記者であれば元警察官などです。純粋に事件に特化した社会部に関しては、好奇心とフットワークの軽い大卒の人間でもいいかもしれません。


これらの人々が交じり合って、一つの紙面を造るとなれば、マスであり、専門性が満たされます。


この解決法はシンプルですが、実現は困難でしょう。実現のためには、現在の記者の首を切らなければならないからです。そして彼らは、他の仕事は出来ないでしょう。



なお、私はテレビとラジオに関しては、報道機関であることを早いところやめたらいいのにと思っています。彼らは報道機関としての能力がありません。娯楽機関です。エンターテインメントです。
娯楽機関としてはある程度意義があると思っています。
報道機関としては厳しいでしょう。
いくつかの番組は充実しているので、各局の優秀な報道スタッフだけで独立すればいいのに・・。
あれほどパワフルな報道装置を持ちながら、あれほど貧相な報道しか出来ないって衝撃ですよね。ドキュメンタリーは面白いときもあるけど、報道ですげーっての余りないですよね。多分海外に目を向けたほういいと思う。海外のすごいニュースを見たい。映像で。日本語で。


これからは、あらゆる業界で、ダイナミックな人材の流動がなければならないでしょう。
マスメディアはその最たるものだと思います。もう一つその業界があると思いますが、
それはまた後日。


では、また。