考えていることを表現する割合

私は、ブログやツイッターをやるまでは、ミクシー程度しか表現媒体を利用していなかった。
ミクシーでは閉じられた友人に対する表現なので、普段の自分のキャラクターを維持した表現活動に終始していた。

今回ツイッターやブログでは、開かれた場において実態を捨象して表現することを意識している。

私がこれまで表現を恐れていた理由は、自分が考えていることは多くの人にとっては受け入れられず、それにより友人を失うのではないかという不安があったためであるが、最近他人から受け入れられないリスクよりも、表現をしたい欲望の充足のほうが上回りはじめた。
リスクがそもそも抽象的だし、仮にリスクが現実化しても、何とか友人関係を維持できるのではないかと漠然と期待するとともに、仮にそれで失われるのであればそれはもうやむをえないと諦められるようになってきたからだ。社会と仕事を媒介としてある程度安定した関係を築けているからだと思う。

というわけで、ブログとツイッターで考えていることを出来る限り率直に表現するようにしている。
とはいえ、本ブログは匿名なので、記載内容について直接友人からコメントを受けることはない。他方で、ツイッターでは実名でやっているので、友人から実生活で結構コメントをもらう。

最近多いのは、「結構病的な呟きが多いよね」というコメントだ。

うーむ、やはりな、というのが率直なところで、やっぱり多くの人は自分と同じようには考えていないのだなと感じることが多い。

でも、別に欝的な状況にあるわけでもなく、また、仕事が忙しくてストレスからつぶやいているわけではもちろんなく、昔から、いつも、同じようなことを考えていた。


今回、私は自分の考えの60%くらいは表現していると思うが、それでも病的と評価されるということは、80%くらいの表現をすればよりそのような評価を受けるのだろう。
それはそれである程度予想通りなのだが、むしろ驚くのが、多くの人が実生活のコメントとツイッターやブログでのコメントが同じな上に、私のツイッターに対して上記のような感想を述べるということで、ということはほとんど包み隠さずに生活しているということか。私も従前は、実生活のコメントとミクシーでのコメントをほとんど同じくらいの内容にしていたので、そこのところについては異存はないが、多くの人は特段隠していたのではなくて、自然とそうなっていたのだということに驚いた次第。私は、考えたことと世間のずれをまずチェックして、ある程度大丈夫と思われるものだけを外に出すことにしているが、考えたことと表現することに大きなずれがない人というのはそのような作業が不要なのだろう。それって相当快適だろうな。

あとは、私自身は、人が生きている以上私のつぶやき程度の不安や問題意識を持ちながら、でも外には出さずに暮らしているのだと思っていたが、みんなあんまりそうではないのか。仕事がうまくいったとか、給料が安いとか、健康に不安があるとか、恋愛がうまくいかないとか、多くはそういうつぶやきで、それはそれでもちろん自分も同じような不安を持っているけど、それとは別に、特別に外部につぶやきはしないけれど、常に心の奥底をのぞいてみれば漠たる不安を持ちながら生活をしているのではないのか。別にみんながみんなつぶやく必要はないけど、漠たる不安をつぶやく私を捉えて病的というということは、自分はそんな漠たる不安は持ってませんということだろうから、結構驚く。それとも、そんな普遍的なことをえらそうにつぶやくなということなのか。そういったことはみんなが抱えて生きているのだから、そんなことをつぶやくのは弱い人間だと、そういうことなのか。そういうことを考えていることではなくて、つぶやくこと自体を病的と評価しているのかな。でも、自分はまさにそれをこそ表現したいと感じたわけだ。だから、表現したいと感じることを病的と評価すること自体も、私にとっては、違和感があるのだ。

ちなみに、上記のような漠たる不安を健康的に抱えている人ってどんくらいの割合なんだろう。同意してくれる人は口に出して同意しては仲間と思われるから言い出しづらいのだろうと善解しても、病的と感じる人は意識的に私に病的であることを指摘したがるであろうからよくコメントをもらうと仮定しても、多分共感を持ってくれる人は10%程度なんだと思う。

だとしたら、なんであんなに純文学的小説が売れるんだろう。小説なんて、ほとんどが漠たる不安をつぶやいているようなもんじゃないか。

なお、たまに私の呟きを見て、同じようなことを感じていた、と言ってくれる人もいる。比較的女性が多い。


以上、つまりは、自分が思っていた以上に多くの人は考えたことの多くを表現しているということに驚いたという話でした。


ではまた。