死刑についての備忘録

出エジプト記

目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない」(出エジプト記21:24〜25)

ハムラビ法典にも同様の規定は見られる。
これは争議の章における種々の規定のスローガンのようなもののようだ
(法典の意義は http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/5054/baby0805.html 195条以下)。


しばしば、「命を奪った人は、自らの命を以って償わなければならない。目には目を、命には命を、だ。」というように、これらの規定が死刑の根拠として用いられる。


しかし、もし「目には目を」規定を貫くならば、文字通り、「目には目を」、「傷には傷」を、傷害罪に対してはムチ打ち刑を、強姦罪に対しては強姦行為又は類する性的刑罰(去勢等を含む)を、経済事犯には完璧に対応した経済的損害を与えるべきだ。


多くの人は、この考えに同意しない。傷害罪に対してムチ打ちで対応させる刑罰は、野蛮で、あまりに非人道的だといわれている。日本においては刑罰は、懲役刑の次は死刑しかなく、アラブ諸国などにおけるムチ打ちなどの刑罰には否定的なコメントが並ぶ。


私が今回備忘したいのは、以下のことだ。

目には目を規定等を死刑の根拠にするならば、傷害にはムチ打ちを与えるべきだ。仮にこれらを野蛮であるからとして否定するならば、当然死刑も野蛮であるとして否定されなければならない。
けれども、日本には、死刑は野蛮ではないけれども、ムチ打ちは野蛮であると考える人がいる。
その理由はおそらく二つだ。


一つは、切腹の文化があるため、死刑について少なからずシンパシーすら抱いているのだと思う。
しかし、これは文化的に誤った認識だと思う。まず、切腹は自発的な意思だが、死刑は強制だ。また切腹が日本の文化として根付いたのは、戦国時代以降に首じるしが戦功のしるしとなってからだし、さらにはそもそも武士のみの文化だ。
武士とは戦士であり、戦士とは生き方であり一つの宗教的教義に近いものであるから、そのような生き方をしている人にのみ妥当する切腹の美学やら文化やらを、全ての国民に当てはめて共用することは許されない。究極のところ、思想良心の自由にすら抵触する。


もう一つはより深刻で、またおそらくこちらの理由が主だと思うのだが、全ての人は死んだことが無いので、死について結局のところリアルに考えることが出来ないのだ。頭の中で想像しようとすらまともにした人は少ないだろうし、想像してもどうしようもない。他方で死を賛美するような文化・文学・教義は世にあふれている。死は本質的に恐怖に値するから出来る限り考えないようにしたい。
だからこそ、死については、どこか甘美な響きすら読み取る。当事者の中にも無期懲役よりは死刑のほうがいいと述べる人がいる。

死刑絶対肯定論: 無期懲役囚の主張 (新潮新書)

死刑絶対肯定論: 無期懲役囚の主張 (新潮新書)


無期懲役は、日々の人生からなんとなく想像することができる。また実際に体験している人もいるから、その人たちの体験を読んだり聞いたりすることが出来る。
死刑を体験した人は一人もいない。死刑の体験記などありえない。死刑一歩手前の死刑囚の手記ですらほとんど世に出てこないが、かろうじて読み取れる死刑囚の体験記からは絶望的な日々の響きが聞こえてくる。

死刑

死刑


われわれは、死を体験したことが無い。死を体験した人の体験記を読んだこともない。実は死については、何一つ分かっていない。具体的に想像することすら出来ていない。

それにもかかわらず、そしてだからこそ、人々は死刑についてだけは、応報を徹底させようとする。
帰納的に考えれば、傷害行為にムチ打ち罰を与えることが野蛮で非人道的であるように、強姦罪に強姦行為を実施することが野蛮で非人道的であるように、人を殺した人を殺す行為は、野蛮で非人道的なはずだ。

死刑については、人々は、全く想像できないがゆえに、軽々と思索によって帰納の壁を飛び越えて、新たな論理を生み出してしまう。


人の死は特別だ。だからこそ人に死をもたらした人には、特別な刑を与えたくなる。そしてそのときだけ、人は「目には目を」の考えを持ち込み、死刑を肯定化する。けれども、特別な刑=死刑とするのは短絡的過ぎる。他の刑では機械的な「目には目を」理論を持ち込まず、刑罰を懲役刑に昇華させた。
被害としても刑罰としても、人の死を真剣に考えるときが来ている。


ではまた。