村上春樹とワンピース

私は大学時代村上春樹をひとつも読んでいませんでした。一昨年くらい前に初めて読んで、それから著名な作品は大体読みました。1Q84も発売からさほど日を置かずに読みました。

今日は、私が大学時代に村上春樹を読まなかった理由と、読んでから感じたことを書きたいと思います。


前者の理由はとても簡単です。多くの人が読んでいたからです。
当時の私は天邪鬼でひねくれていたので、人が読んでいたものはあまり読まないようにしていました。あと、現代小説を読んでも仕方ないと思っていたところもあって、その点は、ノルウェイの森の永沢が「現代文学を信用しないというわけじゃないよ。ただ俺は時の洗礼を受けてないものを読んで貴重な時間を無駄に費したくないんだ。」と述べた箇所は、一部不同意ながらも概ね同意して、もっと早く村上春樹を読めばよかったと、逆説的に思ったものです。

ちなみに永沢はこのあと「人生は短い」ことを理由に挙げていて、現代小説を読まない理由を自己肯定的に落とし込んでいますが、私が現代小説を読まなかった理由はもっと自己否定的であって、つまりは時の洗礼を受けていないものを読む際には、自らの審美眼を問われざるを得ないためです。小説の良し悪しを判断するための知性・徳性・審美眼が身についていない以上、そんな浅薄な自分の選択に書物の選択権をゆだねるよりも、時の洗礼にゆだねたほうが、確実に良い本に出合えるからでした。


さて、「多くの人が読んでいたから」というのをもう少し掘り下げます。
周りの大学生を見てみても、村上春樹を好きという人に限ってあまり魅力を感じない俗物が多かったので(身近な人で、顔を赤らめて村上春樹が好きと告白する人は別でした。念のため。)、さては村上春樹の小説は俗物的で中身の無いものなのだなと早合点したのでした。


けれどもいざ読んできると、読みやすく、面白く、それでいて読後感もじんわりしていて、なるほど人気が出て然るべきだと思ったのですが、そのような感触を抱いて後改めて別の、全く方向性の違う疑問がわいてきました。
村上春樹の小説は、どれもハードボイルドな世界観で、小説がかもし出す感情の揺らめきは少なく深く、淡々とやり過ごすにはヘビーすぎるはずの世界を淡々と生きる登場人物ばかりが出てきます。


私の疑問は、このようなハードボイルドな小説を最も好きな小説に挙げながら、どうして彼ら/彼女らは、あんなに俗物で、ハードボイルドの対極にいたのだろうかということでした。
村上春樹を読むようになってここ1年くらい疑問で仕方が無かったのですが、昨日ワンピースの最新刊を読み終わったときにはたと気づいたのです。


私の先ほどの疑問は、一つの小前提を、三段論法の当然の前提としています。
つまり、私は小説に関して、
1:●●を好きな小説に挙げる=●●の世界観がすき。
2:●●の世界観が好き=●●のような人生を志向する。
3:●●を好きな小説に挙げる=●●のような人生を志向する

という三段論法を知らず知らずのうちに前提としていたのです。

けれども、例えば私がワンピースが好きだからと言って、ろくでなしブルースが好きだからと言って、海賊や不良として生きていくわけではありません。あくまで一つの物語として楽しんでいるに過ぎません。
つまり、私は無意識のうちに漫画と小説を区別していて、小説においては世界観を求めながら、漫画においては娯楽を求め、先ほどの2の論理を全く前提としていないわけです。


好きな小説家として、芥川をあげる人と太宰をあげる人と坂口をあげる人とバルザックをあげる人とヘミングウェイをあげる人とドストエフスキーをあげる人では、どこと無く世界観も人生で大事にしているものも、触れ合ったときの空気感も、少しずつ異なりつつも総じて魅力的な人間にならざるを得ないことが当然であるものとして、私は30年間生きてきたのでした。


おそらく村上春樹を好きな人には二通りの種族がいるのだと思います。

一つには、ワンピースが好きなように、村上春樹が好きな人。
もう一つには、太宰が好きなように、村上春樹が好きな人。
もちろん中間もあるのでしょうが、大雑把にはそういうことでしょう。


そして、今回気づいたことの中で一番大事なことは、後者的に村上春樹が好きな人にとっては、村上春樹を好きと宣言すること自体が村上春樹を好きな人間としてあるべき世界観と抵触しかねないことであるがゆえに、おおっぴらに村上春樹を好きということが出来ず、どこかひねくれて、ハードボイルドに、村上春樹と接することしか出来ないことになるのだと思います。その意味で、村上春樹はメタ的ですね。そして、上記矛盾に気づいている人は村上春樹を好きとは公言しません。他方で、村上春樹を好きと公言する人は、好きな漫画はワンピースと公言するように、村上春樹と接しています。

村上春樹を読みながら、そのような接し方で接することしか出来ない程度にしか村上春樹を読みこなせない人たちは、あまり小説を読む能力に長けていない人でしょうから、少なからぬ割合で俗物に当たることになります。
しかし村上春樹を好きと公言するような人たちは高確率でそのような人たちですから、村上春樹というのは、あまり魅力的でない人たちが評価するあまり魅力的でない小説家だと思ってしまったのです。そういった意味では、私がついつい村上春樹が大したことのない小説家だと思ってしまったのも、やむを得ないのかもしれません。それも含めて村上春樹の本質なのでしょう。
ただ、今振り返れば、そのような人しか読んでいないにしては、ずいぶん売れすぎていることに早めに気づくべきだったかもしれません。その点では恥ずべきで、やや悔やまれます。
でも、この年まで村上春樹を残しておけたことは、多分いま感じつつある感情よりもなお、本質的には僥倖なのだと、おぼろげながら思えます。


ではまた。