企業と政治的自由

企業は営利団体である。
自らの利潤追求が存在意義である。
もちろん、雇用が創設され、
社会的に有用な製品・サービスが生み出され、
活力をもたらすなど、
企業の重要性はたくさんある。
しかし、政治的自由とは相反する存在である。



もちろん個人も、私利私欲のために活動する。
ただ、個人とは生身の人間である。
家族もいる、郷土もある、感情もあり、理性がある。
ごった煮の中心に私利私欲があろうとも、
それは純化されていない。


また、仮に純化された人間がいたとしても、
それは1億の中の1人である。
そのような人間が1000人、1万人、10万人いたとしても、
彼らの私利私欲は論理必然的にバッティングするので、
共通の方向に突き進むことはない。
その中の最大公約数が生まれるだけである。
そして、それこそが政治だ。


また、1人当たりの資産が莫大な個人もいるではないか、
その個人が寄附をすれば、結局影響が大きいではないか、
というかもしれない。


しかし、個人が抱える資産は、
構成上、自らの生存・生活・幸福追求に必要な消費に向かう。
営利企業には、「消費」という概念はない。


そして、企業は法律上、無限に作り出すことが出来る。
1人がいくつもの会社を持つことが可能である。
現在は1円から起業できる。
手続きの煩雑さと、諸費用が少しかかるものの、
現実問題として、今すぐ、100個程度は作ることが出来る。


これが、政治的自由を有することになるのだ。


八幡製鉄最高裁は、
「政治」という言葉に対する畏怖の気持ちを欠いていないか。
「政治」をもの凄く形而上学的に捉えていると思う。
鈍感すぎる。


多分、八幡のときの裁判官は、
東西冷戦を意識したのだと思う。
資本主義を守ることを、意識したのだと思う。
それは、越権だ。
「政治」に口を出したのだから。


1人1票を超えている、
企業社会。
市民のいない、企業政治。


生み出したのは、最高裁である。


司法の持つ、冷徹な力を色々と検討してみたいと思う。


では。また。