判例とは何か。

判例というのは、つまり判決の集まりです。
とりわけ、狭義では最高裁の判決を「判例」と言います。
広義では地裁レベルのも含めて判例と言いますが、
地裁・高裁は「裁判例」と言うほうが多いです。


んじゃ、なんで、「判決集」ではなくて、「判例」(「裁判例」)なのか



今日はこの点について、私の考えを述べたいと思います。


判決集と言ってしまっては、単なる裁判の判決書きの集まりです。
たくさん集めりゃそりゃ判決集になるわけです。


判例と言うときには少し意味が違います。
判例法源なのです。


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法源、というのは、その名の通り法の源です。
つまりは法として機能するものになるわけです。
国会で定められている○○法とかと同じと言うことですね。

例えば刑法199条には、「人を殺した者は死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する」とあるわけですが、「人」とは何か、「殺す」とは何か、といったことは法律のどこにも書いてありません。
「人」が何かなんて常識でわかるだろうが。法律家はホント常識知らずだな、と言われるかもしれませんが、例えば胎児を殺した場合には堕胎罪(212条)になって、一気に1年以下の懲役に下がります。
「胎児」か「人」かなんて、常識でわかるだろう。法律家はホントに常識知らずだな、と言われるかもしれません。
では、母体から頭が出たその「存在」は、「胎児」ですか「人」ですか?
逆子で足から出た場合のその「足」は?

世の中は、極めて多くの「事実」にあふれていて、「条文」なんかでは太刀打ちできません。
法律に書いてあることだけでは、世の中の事実のほんの一握りの、定型的で一般的なものしか対応できないのです。


で、最高裁が「人」とは〜〜を言う、とか「殺す」とは××のことであると判決書きに書いたら、その後「人」かどうか迷った場合には、その裁判をベースに判断がされていきます。
このように後世の判断のベースとなる裁判の集合体を判例と言うわけです。


このように判例という「法源」によって、法律という抽象的で定型的な「法源」を、
世の中の多くの事象に反映させることが出来るのです。
判例が法律を補完していることとなります。




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けれども、当然補完だけではすみません。

法律がない場面において、判例がある事件を処理するために、
独自に「法」を作ることさえあります。

また、法律が時代遅れになっている場面において、当該法律を否定することもあります。


判例の流れを見ていると、世の中の流れが見えます。
判例とは一つなぎの世界観を構成しており、時代を雄弁に物語る小説です。


もちろん判例相互が実質的に矛盾していたり、今から考えれば強く批判されるものもあります。

しかし、それは歴史において歴史相互の矛盾がよく見られること、
また過去の批判は本質的に無意味であることと同様なことです。


そして、それは人間が矛盾の塊であること、自らの過去を批判的に捉えがちであることともつながります。


判例には、人間の本質がつまっているのです。ミクロでみても、マクロで見ても。
裁判は、人間ドラマです。


ではまた。