抽象的人間・具体的人間

昨日、母校の高校に同級生と遊びに行った。
その同級生は母校の近くに住んでいるので、ついでにそいつの家にも遊びに行った。
母校の周辺は結構な高級住宅地で、そいつのマンションも高級住宅地にたたずむ高級そうなマンションだった。部屋の中も結構きれいで棚にはレコードやら書籍やらが並んで、一見自律して自制して、颯爽と働くかっこいいビジネスマンのようだった。でも、実際はそいつはぜんぜん自律も自制もしていないかっこよくないやつだ。

ま、それはおいておいて。

いずれにせよ、高校のときは、高校の周りに住んでいる30歳の大人が、こんな人だなんて知らなかった。もっと、アンニュイで、プロフェッショナルで、人生について達観していて、愚痴なんていわず、黙々と仕事において結果を出し、女性と誠実に向き合うか派手な女性遍歴を持つか、いずれにせよ、当時の自分とは断絶した人間だと思っていた。


何が言いたいかというと、人間というのは、人間というものを、抽象的に捉えた場合には、カテゴライズして、デフォルメして、決め付けるものだ、ということだ。

15歳のときの自分は、30歳で高級住宅地に住む人間のことを、勝手にアンニュイで、プロフェッショナルで、愚痴なんていわず、人生について達観していて、・・、そういった人間だと思っていた。自分と同じような人間としては考えていなかったのだ。

でも、実際に高級住宅地に住む同級生の人間を見れば、そいつのことを、単に高級住宅地に住む30歳のエリートサラリーマン、なんてファクターだけで判断しない。そいつは、騒々しくて、アマチュアリズムで、愚痴ばっかで、人生について悩み苦しみ、仕事について思い煩い、人生において女性とどのように付き合っていくかにいまだ答えを見つけ出せず、そして、もっともっと多くのファクターと、それ以上に多くのカテゴライズできない考えと歴史を持つ生身の人間だ。
自分と同じように。


人間を抽象的に捉えることに意味はない。抽象的に捉えた瞬間に、それは人間を捉えているのではなくて、カテゴリーを捉えている。抽象的な人間を語ることは、当該人間を材料としてカテゴリーとレッテルについて語っているだけだ。それはそれでいいんだけど、それならそれを認識しよう。


ここまで書いてふと思った。
私はまだ、高級住宅地に住む同級生のことを抽象的に捉えているのかもしれない。そいつのことを材料として、そいつに特有で唯一ではあるけれども、そいつのカテゴリーやレッテルを捉えて、把握して、感じて、そいつを認識しているのかもしれない。私は、そいつを、そいつのカテゴリーやレッテルや、言葉にして表現できるそいつのファクターをすべて混濁させた一つの具体的な人間として、捉えることができているのだろうか。

私は、本当に人間を具体的に捉えようとしているのだろうか。
私は、私を、具体的に捉えることができているのだろうか。
人間を具体的に捉えるということは、本当に可能なんだろうか。


可能だとして、どうやって?