感情的に考える人は感情的に考える人のことを好む。
私は、非合理的な考えをすることもあるし、合理的な考えをすることもあります。
当然です。
たとえば、暇な時間を細切れに活用して、7月中に宿題を終わらせておけばとても楽しい夏休みが待っているのに、8月31日まで一切やらないタイプです。
というわけでこの数日はとても大変でした。大人になっても8月31日は鬼門ですね。
タバコをやめれば健康にいいとわかっていてもやめませんでしたし、ギャンブルも大好きです。暑い、寒い、眠い、疲れた、つらい、めんどくさいといったネガティブな感情に負けて、非合理な判断をすることはしょっちゅうです。また、わがままなので、たとえば全く以って非合理な考えでわがままに振舞われると腹が立ちます。
けれども、自分が非合理的な考えをしているときはなんとなく自覚していますし、人から非合理性を非難されたときは、何とか合理的に反論しようと考えます。
つまり、ものごとを合理的に考えようとしているわけです。切り口としての合理を好むわけです。これはおそらく合理性のもたらすなるほど感が好きだからだと思います。一時期はやったAHA体験ですね。結局最後のところでは、感覚に動かされているわけです。
対照的にものごとを感情的に考える人もいます。彼らは合理に重きをおきません。むしろ合理を求める人のことを馬鹿にしています。
世の中理屈じゃねぇんだよ、理屈をこねるな、心意気が足りない、魂の部分に問題がある、等々。
彼らは合理的な人のことを嫌い、憎みます。合理的な人は、自分たちを小手先の理屈でだまそうとしているとすら考えています。
実は多くの場合両者は同じ土俵の戦いです。
単に自分のわがままや利益確保を理屈で説明するか感情で説明するかの違いです。世の中では比較的理屈で説明するほうが利益を確保しわがままを通しやすいので、感情的な人は合理的な人に敵対心を持つのです。
私は、上記のようにわがままや利益確保を目的とするのであれば、正直どちらが趨勢を握ってもかまわないと思います。
けれども、個々人のわがままを超えた理念・概念については、ぜひ合理で物事を進めたいと思っています。例えば消費税の導入や死刑制度の存廃などです。
このように考えると哲人政治やエリート政治に流れがちですが、ほとんどの政治は個々人のわがままのぶつかり合いの調整なので、むしろ感情も要素に入れる必要があります。その場合には哲人政治はふさわしくありません。
では、どうすればよいのか。愚直に合理を旨として広く国民同士が議論するしかありません。本当に立派な人は、合理的な思考を、感情に翻訳する人だと思います。感情から思考を生み出し、理を以って人々の感情を動かす。そのような人に首相になってほしいと思います。
ではまた。