裁判所が常識と乖離する理由

例えば固定資産税の基礎となるゴルフ場の不動産価格は、いまだに積算価格(ゴルフ場用地費用+工事費用)が基礎とされている。いまどきゴルフ場を新規に開場するケースは皆無であり、設置時の積算価格と現在の取引価格とが大幅に乖離しているにもかかわらず。
この理由は一つしかない。課税当局が積算価格を基礎としているからだ。


例えば溺死か否かを判断する為には、遺体の肺及びその他の臓器に包含されるプランクトンの個体数を計測することが有用であると、多くの法医学論文・教科書に記載されている。けれども裁判所はプランクトン検査の有用性を認めない。
理由は一つ、科捜研がプランクトン検査を用いないからだ。


例えば現代の車両にはABSがついているから、急発進の際にタイヤ痕はつかない(ギアをニュートラルに入れた状態で6000回転ほど空ぶかしをした上でギアをつなげばもしかしたら付着するかもしれないが)。しかし、裁判所は急発進をすればもうもうと煙が立ち込めて、タイヤ痕らしき痕を残すと考える。
理由は、昔からの警察官が新たな科学を取り入れずに実況見分を行い、裁判所がそれを疑わないからだ(裁判官がハリウッド映画を見すぎたことも理由の一つかもしれない)。


例えば人が虚偽自白をするのに大した理由は必要なくて、不倫の発覚を回避するという理由だけで殺人の自白をしてしまう人もいることがアメリカの自白研究で明らかになっている。
けれどもいまだに裁判所は、死刑になるかもしれないにもかかわらず、人は虚偽の自白などしないと決め付ける。警察・検察が、適正に取調べをしたと報告するから。


例えば精神障害に対する評価もそうであるし、例えばDNA鑑定に関する判断もそうだ。


裁判所は、自分が専門外であると判断した事項については、科学的思考を放棄し、実務慣行という名の行政判断を優先する。裁判所は、行政判断の追認機関なのだ。行政事件と租税事件と刑事事件において、裁判所は科学者の常識を無視し、常識はずれの判断を繰り返してきた。裁判所に対する科学者の不信感は極めて強固なものにになりつつある。
医者、心理学者、法医学者、不動産鑑定士、税理士、交通工学者、物理学者。私がお会いする専門家の多くが、裁判所に対する科学的不明を糾弾している。



しかし、根っこにあるのは行政機関の非科学的性質だ。裁判所が常識はずれの判断を繰り返してきた理由は、行政が常識はずれの判断に固執しているためである。行政が科学を取り入れない理由は、自分達にはよく分からない分野であるからであり、組織が巨大すぎて一つの規定事実を変更することになれていないからであり、だれも新たな知見を取り入れることによる責任を採りたくないからである。


行政の上記性質は、古くから言われている。だからこそ三権分立が確立され、裁判所には行政をチェックする権限が与えられている。行政事件・刑事事件・租税事件等において裁判所に求められるのは事実の解明などではない。行政・立法に対するチェック業務に専念するべきなのだ。


なお、裁判所の問題点は、科学的に不明であることとともに想像力がないことである。
例えば警察は、気に食わない管轄業(パチンコ屋とか)にひたすら嫌がらせをして言うことを聞かせようとするし、例えば税務署は、税務訴訟で負けると多くの場合、相手方弁護士のところに査察に入る。検察官は被疑者が生意気であれば接見禁止を付すし、警察署は平気で書類を改ざんする。
接見禁止を1月も受ければどんなに明るく朗らかな被告人でも自殺を考えるようになるし、覚せい剤を使うといつも汗が出て目を見開くなんて都市伝説だ。


裁判所に求められるのは、たったひとつ。
自分は法律以外は何も知らないと認める謙虚な心だ。


ではまた。