偽悪的な意味ではなく自分は人格障害の傾向にあると思う

責任能力の事件を手がけると、犯行が病気に起因するものか、人格に起因するものかが問題になることが多い。
病気に支配された犯罪は不可罰的で、人格に支配された犯罪は可罰的で、中間であれば減刑であると、責任能力に関しては一般的にそのように説明される。

犯罪と親和性のある人格として、「人格障害」という「病名」がある。

人格障害 (じんかくしょうがい、英: Personality disorder)とは精神医学においては、一般的な成人に比べて極端な考えや行為を行ったりして、結果として社会への適応を著しく困難にしていたり、精神病理学的な症状によって本人が苦しんでいるような、人格状態に陥っている人を言う。【wiki人格障害

定義からしてあいまいなので、実際の診断は混迷を極める。考えや行為が一般的な成人と大幅に異なる人などごまんといる。現代社会では、社会とうまく折り合いをつけられる人間の方が少数だろう。
異常性を際立たせる為、診断基準には「極端な」とか「著しく」といった修飾語が付けられるが、実際には凶悪な犯罪を犯すような人は、考えや行動パターンが通常人と異なることが多いので、人格障害のレッテルを貼られやすい。


さて、人格障害には、大きく10又は12の類型に分けられている。詳しくはwikipedia:人格障害
もっとも有名な類型の一つである「反社会性人格障害」の診断基準は以下のとおり。

・他人の権利を無視し侵害する広範な様式で、15歳以来起こり、以下のうち3つ(またはそれ以上)によって示される。
1法にかなう行動という点で社会的規範に適合しないこと。これは逮捕の原因になる行為をくり返し行なうことで示される。
2人をだます傾向。これは自分の利益や快楽のために嘘をつくこと、偽名を使うこと、または人をだますことをくり返すことによって示される。
3衝動性、または将来の計画をたてられないこと。
4易怒性および攻撃性、これは身体的なけんかまたは暴行をくり返すことによって示される。
5自分または他人の安全を考えない向こう見ず。
6一貫して無責任であること。これは仕事を安定して続けられない、または経済的な義務を果たさない、ということをくり返すことによって示される。
7良心の呵責の欠如。これは他人を傷つけたり、いじめたり、または他人の物を盗んだりしたことに無関心であったり、それを正当化したりすることによって示される。
・患者は少なくとも18歳以上である。
・15歳以前発症の行為障害の論拠がある。
・反社会的な行為が起きるのは、精神分裂病や躁病エピソードの経過中のみではない。

反社会性人格障害は強行犯罪者に多いとされている。自分の性格をやや主観を交えて見るに、上記人格障害には当たらないと思う。
けど、以下の人格障害の類型基準には、該当するかもしれない。

・非難、反対意見、排除を怖れるあまり、人との接触の多い職業活動を避けようとする
・自分が好かれていると確信しないかぎり、人との交流をもとうとしない
自尊感情(feelings of self-worth)が非常に低く、恥をかいたり、笑われたり、排除されたりすることを怖れるあまり、親密な関係づくり(initiating intimate relationships)を控えようとする
・社会的状況のもとでは、「非難されはしないか」「排除されはしないか」という心配にいつも心を奪われている
・「自分なんかは(相手に)ふさわしくない」との思いから、人との出会い(new interpersonal situations)においても交流を控えてしまう
・自分は社会人として不適格(socially inept)である、魅力に欠ける人間である、他の人よりも劣っている、などと考えている
・新しく何かを始めることは「恥ずかしい(embarrassing)思いをしてしまうかもしれない」ので、そのようなリスクを取ることを極端に嫌がる

「確信しないかぎり」とか「いつも」とか「極端に」といわれるとあてはまらないかもしれないけど、少なくとも全体の傾向は合致している。


責任能力の事件を担当すると、私も人格障害かもしれないと不安に思うことがある。
けれどもはたと考えた。自分の周りに、人格障害には当たらないと言い切れるような人間はいるのだろうか。
皆さんも、10又は12の類型を一つずつ確認してほしい。どこか自分の延長上ではないかと慄然とする累計があるのではないか。人格障害の類型にひとつも該当しない人間など本当にいるのだろうか。誰しも少しはいずれかの傾向にあるのではないか。だとすれば、人格障害の類型は、単に人間というものを大きく類型化したものなのではないだろうか。


全ての人間が、多かれ少なかれいずれかの類型に属していながら、各類型を付き進めた人間だけを人格障害として病気扱いするのは、天に唾するものではないか。少しでも平均値から外れた人間を、抽象的に類型化してくくりだしてもっともらしい味付けをしてから弾劾する社会は、どこか人工的で、人間を工業製品として扱っているように感じる。少しの不具合・少しの逸脱も認めずに、あるべき人間像を強調するのは何かが間違っていると思う。

将来、われわれよりも少しだけ平均値に近づいた世代から、われわれがまとめて障害認定・病気診断を受けるかもしれない。社会の常識が変容することで、旧世代の人間が全て社会から排斥されるかもしれない。

人に質的な違いなどめったにない。多くは量的な違いにすぎない。10又は12のベクトルがあるとして、皆いずれかの座標軸を占める。被疑者・被告人と自分に質的な違いなどないと、刑事事件をするたびに感じている(なお、ごく稀にそうではない人間がいるらしい話を聞いたことがある。次回以降に紹介したい)。


ではまた。