大地震雑感 ※少し文章を整えました(2011.3.14:0404)

私は無事でした。
家族も無事でした。
知る限り友人もみな無事のようです。

今回の地震に関する感想を備忘します。

・私は丸の内の高層ビル(13階)にいましたが、アトラクションのように揺れた以外は、大きな被害はありませんでした。ロッカーのファイルが一冊だけ落ちたくらいでした。ロッカーが倒れたり、机上のマグカップが落ちる等の被害すらありませんでした。図書室の本もすべて無事でした。ですので、当初はさほどの災害とは思っていませんでした。

・一つ目の大きな地震の後は、隣席の同僚と、結構大きかったですねと言いながら、仕事の話をしていました。他の同僚もパソコンに向かったり、電話を続けたりしていました。隣席の同僚と話しているうちに、二つ目の大きな地震がきました。二つ目の地震では、いわゆるP波、縦揺れがきました。人生で初めての揺れ方だったので、これはこの後大地震が来るのではと考えていたら、実際に2秒後くらいに大きな揺れを感じました。揺れはかなり長く続きましたが、一度目の揺れとさほど違いが無かったので、私は立ちながら、ロッカーのファイルを抑えていました。立つこともできましたし、ある程度歩くこともできました。

地震がやむと、さすがに大災害の可能性があると思い、携帯のラジオアプリを付けました。ツイッターで情報を収集しました。ツイッターで、マグニチュードが8以上であることが分かり衝撃を受けました。

・また、台場周辺で黒煙があがっているとの情報を読み、事務所から台場方向をみると、黒煙が見えました。

・事務所内は至って平穏で、多くの同僚はそのまま仕事を続けていました。ただ、地上をみると多くの人がビルから外に出て、皇居広場に集まっていました。我々も集まった方がよいかという議論となりましたが、ビル内よりも安全な地点もなかろうということで、皆が事務所に待機していました。

・まだ、未曾有の地震であるとの認識は乏しく、2時間くらいで電車も復旧すると思っていました。私自身は、4時過ぎに、秋葉原での打ち合わせに行くべく事務所を出ました。エレベーターが止まっていたので、階段で下りました。

・階段を下りると、大勢の人々が黙々と歩いていました。みんなどこに行くのだろうといぶかしんでいましたが、後から考えれば電車の復旧が難しいことを見越して、自宅まで歩いて帰るところだったようです。

・丸の内のあらゆる高層ビルから人々が地上に降り、他方で地下で移動できないとなると、数万単位の人間が地上で歩くことになります。ビルと地下から人をあぶりだすと、丸の内はバングラディシュをはるかに超える世界一の人口過密地域なんだと実感することになりました。

・タクシーを拾おうと思ったのですが、空車は一切ありません。あきらめて近くに止めていた自転車を拾いに行き、そこから自転車で秋葉原に向かいました。およそ30分程度で秋葉原に付きました。途上、一度も空車のタクシーを見ませんでした。人々は黙々と歩いていました。道路は全く流れていませんでした。一か所道路上に水漏れがあったと思われるところがありましたが、すでに修繕を終えていました。東京の危機対応能力に感銘を受けました。

秋葉原の弁護士事務所に着くと、本棚は崩れていましたし、棚からは様々なものが落ちていました。とはいえ、中にいる弁護士らは、さして意に介さず書面を作成していました。私も1時間ほど打ち合わせをしました。

・打ち合わせ中に大きな余震がありました。雑居ビルで体感する地震は丸の内で体感したものとは異質でした。逆説的に耐震高層ビルの安全性を実感しました。

・打ち合わせ終了後、当該事務所のメンバー数名と夕飯を食いました。秋葉原はどの飲食店も混雑していました。

・夕飯後、丸の内の事務所に戻りました。事務所のエレベーターは貨物用のみながらすでに復旧していました。事務所に戻ると帰宅をあきらめた人々が楽な服装に着替えて、会議室で休息をとっていました。私は1時間ほど、皆と一緒に事務所のテレビを見て過ごしました。11時ころに私が利用する電車が復旧したため、電車に乗って帰宅しました。

・帰宅途上でラーメンを食べました。

・マンションのエントランスに入るとエレベーターが止まっていたため11階まで階段を上りました。

・帰宅するとほぼすべてのコップが割れていましたが、それ以外は特段被害を受けていませんでした。本棚も家電も一切倒れていませんでした。ガスが止まっていましたが、簡単な操作で容易に復旧しました。

・いざ自宅に帰ると、私程度の被災具合でも少し気が張っていたようで、風呂に入らずに寝てしまいました(私はどんなに酔っ払っても風呂に入ることにしていおり、風呂に入らずに寝ることは稀です)。

・寝る前には死者・行方不明者数百名だったのが、起床してニュースを見ると1000名を超えていました(現時点(地震から33時間ほど経過した翌日の夜12時ころ)では岩手の三陸海岸沿いの町で1万人単位の行方不明者がいるとされています)。

・起床後ツイッターでは、ひたすら節電を呼び掛けていました。多くの人が自発的な節電を実施し、エヴァの一幕を模してヤシマ作戦と呼ばれるようになりました。

ツイッター上では、節電をしないパチンコ屋、コンビニ、ゲームセンター等の企業やイルミネーションを維持する会社に対する罵詈雑言が飛び交っていました。ある種のヒステリー状態でした。

・少なからぬ人は、興奮を隠しきれず、感動的な話、民族的な呼応、なすべきことの情報拡散、友愛的言動のリツイートに奮闘していました。東京では正直無事平穏な日常の時間が流れていました。両者の対比は不思議なもので、多くの人は無理のある想像力と、生死にかかわる事態により揺さぶられた生命力のやり場に困っているようでした。

・3時半ころに、福島第一原発の建屋が爆発してけし飛び、それ以降報道は、原発の安全性がメインテーマとなりました。避難地域も、当初の5kmから10km、20kmと広がっています。さらには、原発から3.5kmの高校に待機していた民間人が被ばくした旨の報道がなされました。スリーマイルやチェルノブイリと比較されるようになり、ツイッターでもテレビでも、ホウ酸・ヨード・海水による冷却・溶融炉の仕組みなどの情報が消化不良のまま流されて行きました。

・私は、夕方から丸の内の事務所に行きましたが、普段は煌々と輝く街が死んだようになっていました。行きつけの店もほとんど閉店で、吉野家で夕食を採りました。事務所にはだれ一人出勤しておらず、また街中が節電をしていたので、申し訳なくなり2時間ほどで帰宅しました。

・そして、いま、これを書いています。いつもと何ら変わりのない土曜日の深夜として、時間が流れています。テレビの中では繰り返し大災害が報道されています。けれども、そこにスマトラ沖地震と本質的な相違はありません。もちろん、本格的な被災を受けた東北の友人も、一晩まんじりともせず過ごした東京の友人もいます。その点ではスマトラよりも被害は肉迫しています。しかし、私及び私の生活に日常的にかかわる人々に関する限り、スマトラと変わりはありません。そして、自分及び自分に日常的にかかわる人間に被害があるかというのが、つまるところ災害の本質なのかもしれません。少し悲しくはありますが、それ以上の感傷は、自分の肉体からくるものではありません。私は、頭で作り上げた感傷を好まないようにしています。


ではまた。