今日、気づいて、考えたこと

被災地に行くかどうかの議論をしながら気づいたこと

行かない理由は100個だって挙げられる。
行く理由は1個しかない。


理屈で考えると行かないことになる。
30超えてから何かをするか迷ったら、理屈で考えちゃダメだ。




野球を見ながら気づいたこと

野球の監督は、ピッチャーを変えるとき、必ず次のピッチャーを考える。
マウンドにいるピッチャーがどんなにダメでも、ブルペンにいるピッチャーがそれよりダメなら、続投しかない。
ブルペンにいる二人のピッチャーのうちAの方が基礎能力は高くても、次のバッターとの相性がBのほうが良いなら、監督はBを選ぶだろう。
四球が3回続いたからといって、後先考えずにすぐにピッチャーを変えるような監督は、我慢ができないヘボ監督だ。
けれども、ファンは辛抱が足りないから、すぐにピッチャーを変えろという。


首相の交代を主張するときは、必ず次の首相を考えなきゃダメだ。
視聴者は辛抱が足りないから、すぐに首相を変えろという。
後先考えて必ず次の首相を考えるべき監督はだれだ?




被災状況をニュースで見た後に、風呂場でぼんやり考えたこと

1935年から1955年くらいまで、人々は、ひたすら我慢をしていた。
それは、明るい未来が来ると思っていたからだ。
戦争に勝てば日本が覇権を握れる。戦後の復興を果たせば経済的に豊かになれる。
未来に希望がなければ、人々は我慢をすることが出来ない。


これからは戦時と同じ我慢を要求される。
どんなに短くとも、福島が収束に向かうまでの20年間は、耐え忍ぶ20年だ。
けれども、戦中・戦後の希望は見当たらない。


福島が収束に向かうまでに、このままでは莫大な借金が積み重なる。
これからの子どもたちには、借金と放射能が残される。
そんな希望の見当たらない社会で、我慢は機能するのだろうか。


社会に必要なものは、未来への希望だ。
政治に求められるものは、未来の希望へのスローガンだ。
これからの希望は何なんだろう。


例えば、
ここぞとばかりに我慢を強いて、借金を返済しつくすことを一つの希望に掲げることは出来ないか。
社会福祉も、豊かさも、便利さもかなぐり捨てて、
その代わりにひとつだけ、希望を具体化することができれば、我慢をしてても頑張れるかもしれない。


そのための犠牲は文字通り半端なものではない。
コミュニティの崩壊や伝統芸能の壊滅などもあるだろうし、
食の安全とか、治安の維持とか、最先端の科学技術とか、全て今よりずいぶん見劣りすることになる。
けれども、ある種の戦争中なんだから仕方がない。
そして、戦争と異なり、借金の額は減り続ける。


価値観が多様化されて、暗い話題しか見当たらない社会において、
ある種逆説的だけれども、これからの唯一の希望となりうるもの。
数値化されていて、毎年の努力目標が分かりやすく、
国民が一体感を得られうるもの。
今年は借金が3兆減りました、来年は5兆減らします、
そのような具体的な目標でしか、もはや国家を一つにすることは出来ないのではないか。


計画をはじめて15年後くらいからは、社会に希望が満ち溢れる。
20年後に借金の額がゼロになったとき、
いたるところから新しい形の希望が鮮明に具現化されて、社会をデザインしていくことになる。
放射能を残してしまった子どもたちに、借金のない社会を受け渡す。
いまから生まれる子どもたちが、ちょうど成人を迎えるときに。
30年間贅沢三昧をしてきた自分たちができるせめてもの罪滅ぼしに。



そんなことを考えた。

ではまた。