公然の秘密が公然になる時代

相撲の八百長がばれたとテレビ局が大騒ぎだ(NHKのトップで延々10分間メールでの星の買い方が解説されてた)。ちょっと違和感があるんだけど、相撲の八百長っていわゆる公然の秘密ではなかったの?自分が物心ついたときからいわゆる八百長疑惑はひたすらあって、週刊現代問題では裁判にまで発展していた(別問題として裁判で八百長は絶対にないと証言し続けた人たちに偽証の検挙がありうるかも。)。

角番になっては次場所でお約束のように8勝7敗で角番を脱出していた千代大海八百長をしていたことは火を見るより明らかだと考えていたんだけど、あまり一般的な考えではないのかね。千代大海については、相撲協会ですら、「無気力相撲」としてたらしいから、社会通念だと思ってた千代大海龍二 - Wikipedia。みんな千代大海はぎりぎり勝負強いなぁと思っていたの?本当に?だとしたらちょっと社会との接し方を根底から考え直さないと、いつか自分が袋叩きに会う気がしてきた・・。

あくまでこれまで一応公式見解としてはなかったことにしていた八百長が、メールによって証拠化されてしまって言い逃れできなくなってしまった、というだけだと思う。もちろん、証拠となって言い逃れできなくなれば、何かしらの責任取らなくなるという点で質的に大きな変化ではあるけども、心情的に驚きはない。そして心情的に全く驚きがない事実を、さも驚くべき事実であるかのように報道されてしまうと、げんなりしてしまう。特に、公然の秘密が公になるや否や、突然堰を切ったように報道されるとなおさらだ。しがらみから報道せず、週刊誌の報道についてもさして触れず、裁判についてやや触れて、いずれにせよ自分達で八百長の事実をえぐるための独自取材は放棄していたのに、大本営から発表されるや否やさも初めて重大な事実が明らかになったかのように徹底的に報道するというのは、少し品がなさ過ぎると思う。


これは、この前の検察の証拠改ざんについても同じで、検察は多かれ少なかれ証拠を改ざんしているわけで(調書)、それが物的証拠だったから、あとからごまかせなかったというだけで、本質的には何も代わらない。検察の取調べの問題なんかも、テープで録音されて言い逃れできないから問題になっているだけで、これまでの密室取調べに関しては、証人尋問でどんなに追求されてもひたすら虚偽事実を述べてきたんだから、さして心情的な驚きはない。なお、自白の任意性が争われた事件で、裁判所から任意性が否定された事案では、必ず検事・警察が虚偽供述をしていることになるのに、一切偽証で検挙されないのもどうかと思う。これも一つの公然の秘密かもしれない。


ということで2点とも各論としてはさほど驚きはないんだけども、総論としてはとても驚くべき時代だと思う。つまり公然の秘密を維持することはもはや出来ない時代ということだ。ウィキリークスもそうだけど、ネット社会・クラウド・日常の一こまがすべて記録化されるメール等の発達・情報管理技術の進歩・発信者としての国民・告発文化の醸成などから、公然の秘密は存在することが極めて困難な時代に突入した(ジャスミン革命は、秘密が明らかになることで爆発したものだ)。


国民のプライバシーもどんどんなくなるかもしれないし、外交機密なども崩壊するかもしれない。
その後に待つ世界は、どうなるのか全く分からない。ただ、暗黒な社会というイメージは、僕にはない。1984もそうだったけど、情報が閉鎖的で管理的で中央集権的であればあるほど、人々が疑心暗鬼になって社会は暗くなる。情報が底抜けに公開される社会というのは、人類を別のステージに引き上げるかもしれない。

公然の秘密が公然になる時代、次は何が公然となるのだろう。


ではまた。

自信の分析

自信は大事だとよく聞くので、少し分析してみた。

自信はどこから来るかというと、大きく2つで、1つは、自分との約束を守る回数の積み重ねで、もう一つは、自己の能力・外見・性格等の評価が高いことだ。

1つめは分かりやすいが、実は大事で、どんな小さな約束でも守れば守るほど自信がつくし、破れば破るほど自分を信じられなくなる。朝おきる時間、ダイエット、仕事の納期。自信という観点からは、どれも同じくらい重要で、価値の高い約束だ。


2つめは、当たり前といえば当たり前だが、もう少し砕いて言うと、
自己の評価基準と、自己の構成要素が合致していること
であるともいえる。
これは、能力だと一番わかりやすくて、例えば、自分に人と適当に話すことが出来る能力があるとして、でも自分は適当に話すような会話を毛嫌いしていて、しっとりと落ち着いて含蓄のある言葉を紡ぐことを評価していれば、自分のことをあまり高く評価することは出来ないだろう。
または、人からはすごいねといわれる能力があったとしても、自分が大したことのないと感じている能力でも同じことで、つまりはそんなことできてもしょうもないと自分は考えているけど、そんなに多くの人ができるわけではないことが出来る場合は、人からの評価がどんなに高くても自分の評価は高まらない。それは、適当に勉強して適当に試験でいい点をとる能力とかが典型かもしれない。

これは、性格や容姿だと少しぼやけるが実は本質的には同じことで、髪がふさふさでいいよねといわれても、本人にとってどうでもいいこともある。自信があるかどうかと人のことをうらやむかどうかが裏表なのは、この点からもわかる。


さて、自己の評価基準と自己の構成要素がずれている人は、どうしてそのような評価基準を身に着けてしまったのだろうか。自分ともっとも接している人間は自分なのだから、自己の評価基準を構築する際にも、身近な評価対象たる自分を基準として構築してよさそうなものだ。自分が優れている点を、評価基準構築の際に評点を高く割り振りして、自分が優れていない点を低く割り振りすれば、常に自分を高く評価することができる。たまにこういう人がいて、とても自信家な半面、人を見下す傾向にあったりする。


子供の多くは自己評価が高い。皆、昔は自己の評価基準と自己の構成要素は大体一致していたのだと思う。これが崩れるのは、多分3つ。1つは社会的評価。社会が何を評価するかにより自己の評価基準を再構築していく。1つは、身近な人の心無い一言。自分も言わないよう気をつけようと思う。

最後に重要な点は、多分自分との約束を守る回数で、自分との約束を守らない人は、自分に対する全体的評価が下がるから、評価が下がった人間の構成要素も低く見積もるんだと思う。行動から派生する自身全体への悪評価が個別の構成要素にもフィードバックされるということだ。


なお、仕事の出来不出来とか、試験の点数とか、金を稼げるかどうかは、実はあんまり影響しないと感じている。もちろんある程度は影響するけど、それは自分との約束を守った結果が数値になるから、自分への信頼が強固になるだけであって、ある種味付けに過ぎない。本質は自分との約束のほうであって、それさえ守れていれば、そんなに点数が取れなくても、自信は構築されていくでしょう(いずれも予想をはるかに超えて低い場合は、ベースとなる能力値に対する自尊心が壊されるので、結果として自信が喪われるがこれは別の話)。

これから自信をつけたい場合は、意識的に、徹底して自分との約束を守りましょう。
そして、問題は約束を守ることであって、大きな結果を出すことではないので、守れる程度の小さな約束が重要です。


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自信をつけるために、週に1度は更新したいと思います。



ではまた。

人と話すことを一切禁じて、精神的に追い詰める。

大麻所持の初犯で、予定主張4通だして、概ね主張は出し尽くしたと明記していて、詳細に自分のものではない理由を書いたのに、誓約書を提出した80歳の父親と70歳の母親についても接見禁止を維持するって、一体裁判官は何考えて生きてるんだ。拷問以外何ものでもない。久々に本当に頭にきた。信じがたい。

勾留・保釈については見解の相違があるのはまだわかる。逃げたら一大事だから慎重になるんだろう。でも、起訴した事件について、接見禁止なんて原則として禁止するべきだ。両親が、大麻所持についてどんな証拠隠滅をするんだよ、どんな場合に立会いをかいくぐって隠滅するんだよ。常識が無さ過ぎる。

大体防御の為の打ち合わせを以って、証拠隠滅ってむちゃくちゃだ。検察官は、弁護側証人をひたすら偽証で立件するくせに、検察側証人を偽証で立件したことは多分歴史上皆無だ。調書の任意性が否定された取調を担当した警察官や検察官は、全員偽証で引っ張るべきだ。検察審査会で全部起訴させるべきだ。

接見禁止がどれだけきついか、裁判官全員に体験させるべきだ。最近裁判所は変わりつつある。けれども、やっぱりときどき信じがたい裁判官に出会う。

怒りを愚痴に変えるだけでなく、改めて解除の申し出をしようと思う。


ではまた。

権利と義務とテレビ局

番組ネット転送「違法」 最高裁

2011年1月19日 朝刊

 テレビ番組をインターネット経由で送信し、海外などで見られるようにするサービスは著作権法違反だとして、NHKと在京民放五社が、東京都内の運営会社「永野商店」に送信の差し止めや損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第三小法廷(田原睦夫裁判長)は十八日、テレビ局の権利を侵害していると認定。テレビ局側敗訴とした二審・知財高裁判決を破棄し、損害額などをさらに審理させるため同高裁に差し戻した。 

 問題のサービスは、ソニー製の映像伝送機器「ロケーションフリー」(販売終了)を使った「まねきTV」で、二〇〇七年時点で七十四人が利用していた。利用者はそれぞれに機器を購入して永野商店に預ける。機器にはアンテナで受信した番組が入力され、利用者はパソコンなどを使ってインターネット経由で機器から見たい番組を受信する。

 テレビ局は、不特定多数に番組を送信する公衆送信権と、視聴者の求めに応じて番組を受信させる送信可能化権という著作権法上の権利を持っている。訴訟では、サービスが二つの権利を侵害するかが争われた。

 同小法廷は「機器に情報を入力する者が送信主体となる」と判断。まねきTVの仕組みでは、アンテナで受信した番組を各機器に入力している永野商店が送信主体で、利用者は不特定多数の公衆にあたり、公衆送信権送信可能化権を侵害しているとした。

 永野商店側は「番組を転送する場所を貸しているだけで、著作権を侵害していない」と主張。一審東京地裁は、機器からの送信主体は各利用者と判断。二審も「一対一の送信にすぎず、公衆への送信にはあたらない」としていた。

 永野商店側弁護団の話 国民の著作物の利用を制限する極めて不当な判決だ。

 NHKと民放五社の話 適切な判断が下された。著作権などの権利の適正な保護に努めたい。

著作権の法的な議論はあまり興味が無い。
気になるのは以下の点。


1つは、特権免許事業者のテレビ局に、しかも強制的に受信料まで取るNHKに、普通の私人と同じような意味で著作権を認める必要があるのかということ。皆様のNHKじゃないの?NHKの著作物は皆様に還元するべきじゃないの?もちろん半分は言いがかりなんだけど、どうもテレビ局が著作権だの表現の自由だのを主張するのはおかしいと思う。一度テレビ局の法的性質について腰をすえて勉強する必要がありそうだ。仮説として、テレビ局とは、通常の法人とも、新聞メディアとも、行政機関とも異なる特殊な法人であって、大げさに言えば特別法で管理すべき存在だと思う。放送法による業法管理ではなくて。
独立法人にすべきだとか、公務員とするべきだとなんていうつもりは毛頭なくて、一般の私的法人と同様に民間業者に任せて民間の論理に原則として委ねたらいいんだけど、著作権とか表現の自由とか、税金とかに関して言えば、例えば宗教法人と同じように、何らかの特別の仕組みが必要だと思う。
テレビ局って法的にとても特殊な存在だよね。


もう1つ。
客が是非とも欲しいと言っているんだから、テレビ局が売ればいいんじゃないの?技術的に可能で採算が取れることは、まねきTVが明らかにしてくれたんだから、金と時間をかけて長々と訴訟なんてしてないで、同じビジネスモデルを展開するか、まねきTVを子会社にしたら?
個人的には、著作権を持ちながら、そして採算が取れるにもかかわらず、販売しないって権利を保持する資格が無いと思う。著作権が認められた趣旨に鑑みても、義務が伴う権利と考えてもいいのでは?
昔のバブルのワンマン経営者(俗物)が、メアカが付くと称して名画を公開しなかったことにも通ずる。著作権とか所有権があるからと言ってなんでもしていいわけじゃないんだよ。
特に公益的な要素が強いテレビ局は。
例えば今日の日本・カタール戦とか、100円払ったら生中継をネットで見れるとかしてほしい。
あ、よく考えたら、まねきTVがだめで、スポーツバーがいい理由ってなんだろ。


もう1つは、無料で配信しながら著作権云々言うのは違和感が強い。
歌や、漫画が、著作権にうるさくなるのは分かる。金とって販売してるデータが無料で/安価に転送されたら、商売上がったりだからね。
でも、テレビ局は、基本的に無料で配信してるわけで、それをビデオにとるところまでは許されているわけでしょ。無料で/安価で転送されたらどのような不利益があるんだろう。
もちろんテレビを見ずにビデオで見てしまうから、広告料が入らなくなる、というのはあるだろうけど、そんなん既に多くの人がビデオ録画で視聴している以上、保護するに値するとは思えない。
しかもまねきTVは、録画をせず直接配信していたんだから、むしろビデオ録画で視聴する人よりもテレビ局にとってはありがたいお客さんなんだと思うんだけどなぁ。


以上、全体として、商売としても、法分野としても、いまひとつ感覚がつかめない事件だけど、これをきっかけに少し勉強してみようと思う。

新年一つ目なので、そしてひと月もあいてしまったので、リハビリがてら感想文を。
遅くなりましたが今年も宜しくお願いします。
ではまた。

イスラムに対する隠し切れない興味

イスラムが気になる。

自分が偏見を抱いていなかったかといえばうそになる。
無知は無理解で、無理解は偏見で、偏見は諸悪の根源で、また、未知は無知につながり、いつも何かしらの問題を引き起こす後ろにどろどろに固まってひっそりと控えているのだ。


他方で、未知は、好奇心の源で、溶けゆく未知は、生まれ変わりの材料です。
未知との遭遇は、人生の最大の醍醐味です。


というわけで、私は先月頃からムスリムと遭遇している。予想をばんばん覆されているし、何よりとても魅力的だ。何冊か本を立て続けに読んで、何人かの人に立て続けに会って、イスラムへの興味は増すばかりだ。

私はこれまで、イスラム国に訪れたことが無かった。
ここ2年ほどエジプトに惹かれ続けていたのも、体が未知を溶かす快感を求めていて、形としてのピラミッドと混ざり合っていたからなのかもしれない。10年近くインドに興味を抱いていて、ようやく3年ほど前に訪れて、それ以来海外熱が引いていたけど、来年は必ずイスラム国に行こう。

ちなみにアラビア語で聞く礼拝(サラート)の音色は、とてもきれいです。
ムスリムに関して気になったことを、次回以降備忘として記載したいと思います。


ではまた。

過払い訴訟

一時期少しだけ多重債務者だったので、あの支払日が迫るのに金策が全く出来ていないときにかく冷や汗は、体に染み渡る記憶の一つとなっていて、過払い当事者には共感することが多い。

弁護士が過払い訴訟を手がけることには揶揄も多いけれど、当事者からの感謝は刑事事件と意外と似ていたりする。

過払い訴訟に至る手順はある種定型で、それに対する業者の反論もより定型で、不誠実に続く期日はあまり好きではなかった。

今日の裁判では、相手方は答弁書を出して擬制陳述だったけれど、あまりに定型なのと内容が軽薄なのとで、裁判官が初回なのに結審してくれた。

初回で、擬制で、結審して、判決をする裁判官の訴訟指揮には、もしかしたら異論もあるのかもしれないけれど、そのような異論がありうることを踏まえてなお決意した上で、小さな決意かもしれないけれど、手続を終わらせてくれた裁判官には感謝したいと思う。

全ての判断には異論がある。

異論に気づかずにする判断は害悪だけど、異論を踏まえてなおする判断は、歴史と社会を前に進める一里塚だ。両者は外形上は異なるところは無い。世の中の大事なことは、似て非なる対事象をもつ。
一緒くたにして論じると、それもなお害悪だ。

歴史と社会を進めることに意義があるのかわからないけど、進める方向が意義のある方向かわからないけど、歴史と社会を進めると自分自身が思いこんで、自分自身を進めることには多分意義があるんだと思う。

ベクトル自身は自分の向きとか長さを気にすることはできない。あと、ベクトルの向きとか長さを測定するためには升目が必要だ。


ではまた。

村上春樹とワンピース

私は大学時代村上春樹をひとつも読んでいませんでした。一昨年くらい前に初めて読んで、それから著名な作品は大体読みました。1Q84も発売からさほど日を置かずに読みました。

今日は、私が大学時代に村上春樹を読まなかった理由と、読んでから感じたことを書きたいと思います。


前者の理由はとても簡単です。多くの人が読んでいたからです。
当時の私は天邪鬼でひねくれていたので、人が読んでいたものはあまり読まないようにしていました。あと、現代小説を読んでも仕方ないと思っていたところもあって、その点は、ノルウェイの森の永沢が「現代文学を信用しないというわけじゃないよ。ただ俺は時の洗礼を受けてないものを読んで貴重な時間を無駄に費したくないんだ。」と述べた箇所は、一部不同意ながらも概ね同意して、もっと早く村上春樹を読めばよかったと、逆説的に思ったものです。

ちなみに永沢はこのあと「人生は短い」ことを理由に挙げていて、現代小説を読まない理由を自己肯定的に落とし込んでいますが、私が現代小説を読まなかった理由はもっと自己否定的であって、つまりは時の洗礼を受けていないものを読む際には、自らの審美眼を問われざるを得ないためです。小説の良し悪しを判断するための知性・徳性・審美眼が身についていない以上、そんな浅薄な自分の選択に書物の選択権をゆだねるよりも、時の洗礼にゆだねたほうが、確実に良い本に出合えるからでした。


さて、「多くの人が読んでいたから」というのをもう少し掘り下げます。
周りの大学生を見てみても、村上春樹を好きという人に限ってあまり魅力を感じない俗物が多かったので(身近な人で、顔を赤らめて村上春樹が好きと告白する人は別でした。念のため。)、さては村上春樹の小説は俗物的で中身の無いものなのだなと早合点したのでした。


けれどもいざ読んできると、読みやすく、面白く、それでいて読後感もじんわりしていて、なるほど人気が出て然るべきだと思ったのですが、そのような感触を抱いて後改めて別の、全く方向性の違う疑問がわいてきました。
村上春樹の小説は、どれもハードボイルドな世界観で、小説がかもし出す感情の揺らめきは少なく深く、淡々とやり過ごすにはヘビーすぎるはずの世界を淡々と生きる登場人物ばかりが出てきます。


私の疑問は、このようなハードボイルドな小説を最も好きな小説に挙げながら、どうして彼ら/彼女らは、あんなに俗物で、ハードボイルドの対極にいたのだろうかということでした。
村上春樹を読むようになってここ1年くらい疑問で仕方が無かったのですが、昨日ワンピースの最新刊を読み終わったときにはたと気づいたのです。


私の先ほどの疑問は、一つの小前提を、三段論法の当然の前提としています。
つまり、私は小説に関して、
1:●●を好きな小説に挙げる=●●の世界観がすき。
2:●●の世界観が好き=●●のような人生を志向する。
3:●●を好きな小説に挙げる=●●のような人生を志向する

という三段論法を知らず知らずのうちに前提としていたのです。

けれども、例えば私がワンピースが好きだからと言って、ろくでなしブルースが好きだからと言って、海賊や不良として生きていくわけではありません。あくまで一つの物語として楽しんでいるに過ぎません。
つまり、私は無意識のうちに漫画と小説を区別していて、小説においては世界観を求めながら、漫画においては娯楽を求め、先ほどの2の論理を全く前提としていないわけです。


好きな小説家として、芥川をあげる人と太宰をあげる人と坂口をあげる人とバルザックをあげる人とヘミングウェイをあげる人とドストエフスキーをあげる人では、どこと無く世界観も人生で大事にしているものも、触れ合ったときの空気感も、少しずつ異なりつつも総じて魅力的な人間にならざるを得ないことが当然であるものとして、私は30年間生きてきたのでした。


おそらく村上春樹を好きな人には二通りの種族がいるのだと思います。

一つには、ワンピースが好きなように、村上春樹が好きな人。
もう一つには、太宰が好きなように、村上春樹が好きな人。
もちろん中間もあるのでしょうが、大雑把にはそういうことでしょう。


そして、今回気づいたことの中で一番大事なことは、後者的に村上春樹が好きな人にとっては、村上春樹を好きと宣言すること自体が村上春樹を好きな人間としてあるべき世界観と抵触しかねないことであるがゆえに、おおっぴらに村上春樹を好きということが出来ず、どこかひねくれて、ハードボイルドに、村上春樹と接することしか出来ないことになるのだと思います。その意味で、村上春樹はメタ的ですね。そして、上記矛盾に気づいている人は村上春樹を好きとは公言しません。他方で、村上春樹を好きと公言する人は、好きな漫画はワンピースと公言するように、村上春樹と接しています。

村上春樹を読みながら、そのような接し方で接することしか出来ない程度にしか村上春樹を読みこなせない人たちは、あまり小説を読む能力に長けていない人でしょうから、少なからぬ割合で俗物に当たることになります。
しかし村上春樹を好きと公言するような人たちは高確率でそのような人たちですから、村上春樹というのは、あまり魅力的でない人たちが評価するあまり魅力的でない小説家だと思ってしまったのです。そういった意味では、私がついつい村上春樹が大したことのない小説家だと思ってしまったのも、やむを得ないのかもしれません。それも含めて村上春樹の本質なのでしょう。
ただ、今振り返れば、そのような人しか読んでいないにしては、ずいぶん売れすぎていることに早めに気づくべきだったかもしれません。その点では恥ずべきで、やや悔やまれます。
でも、この年まで村上春樹を残しておけたことは、多分いま感じつつある感情よりもなお、本質的には僥倖なのだと、おぼろげながら思えます。


ではまた。